『現代美術逸脱史』再読 四(閑人亭日録)

 千葉成夫『現代美術逸脱史 1945~1985』晶文社一九八六年三月二十日初版 一九八九年五月三十日四刷、「第二章 一九六○年代」」を再読。

《 ここで六○年代というのは、「ハイ・レッド・センター」結成などにみられる「反芸術」の終息ないし変貌が起こってくる一九六三年あたりから「もの派」がはじまるまでの六○年代後半にかけての時期、つまり一九六○年の中期から後期をさしている。 》 85頁

《 おそらく、六○年代中期とは「反芸術」の変貌過程、「反芸術」であらわになった諸問題が変質をこうむりつつさまざまな動向のなかに再生産されていく時期、六○年代後期とは美術が極限化していく時期とみることができる。「反芸術」、日本観念派、そして欧米におけるコンセンプチュアル・アートというもうひとつの極限化状況からの影響、主としてこの三つの要因から、美術が極限化していく過程としてとらえることができるだろう。 》 86頁

《 美術の領域が変化したというより、彼我の美術概念の差異とその差異の自覚(ないし直観的理解)が、それまでならかんがえられなかった対象や領域をおのずからよびよせたのだといったほうがよい。むろん、美術の対象領域や作品領域のこうした転換がハイレッドセンターによって完遂されたとは言えないだろうが、大局的にみれば、「具体」と「反芸術」が先鞭をつけたこの変貌過程を、すくなくともさらに一歩すすめたことだけはたしかなのだ。 》 96頁

 東京新聞「美術評」、椹木野衣「合田和佐子展 帰る途(みち)もつもりもない」が興味深い。

《 ロックや演劇、映画との切り離せない接合があるという点で、合田の作品は最初からファイン・アートの閉域には収まらない巨大な吸引力を持っていた。かつて私はそうした力を「後美術」と呼び、いわゆる正史とは異なる奔流が二十世紀の美術にあることを示したが、合田はまぎれもなくその極めて強力な牽引者のひとりであった。(引用者・略)──とかくモダニズムが重んじられるアートの世界にあって、合田はむろん、こうした動きの一大拠点となった旧渋谷パルコを含め(その榎本が立ち上げた「日グラ」展から日比野克彦がデビューする)この流れはもう一度、根本から見直す必要があるだろう。 》
 「合田和佐子展 帰る途(みち)もつもりもない」
 https://mitaka-sportsandculture.or.jp/gallery/event/20230128/

 本棚から『オブジェ人形』グラフ社1965年12月25発行、『パンドラ』PARCO出版1983年12月1日発行、『オートマチズム』トムズボックス1989年7月1日発行を抜く。 半世紀前から気になっていた人。個展で名刺をもらった。

 午前、源兵衛川最下流部でカワニナの採取~水の苑緑地に放流作業に参加。バケツ八分目が三杯も。これほど採れるとは。昼前帰宅。

 ネット、うろうろ。

《 美大の卒展の季節なので、なかなか切ないツイートが流れてくる。僕は前から言ってるけど、発表を続けることは別に偉いことでも素晴らしいことでもない。むしろ発表依存症というジャンキーになること、以上でも以外でもない。その頂点にピカソ草間彌生がいて。エゴイズムの存在が大前提にある。 》 会田誠
https://twitter.com/makotoaida/status/1621479564437504001

《 西欧ではラスコー洞窟の例のように、2万年前頃に制作された動物の壁画がみられる。そこに記号のように描かれた点や斜線が、太陰暦の月を示すという Cambridge Archaeological Journal 誌の論文。 http://bit.ly/3X5Bqhz 著者の B. Bacon 氏らによると、古代人が獲物となる動物の生育サイクルを記録。 》 Oguchi T/小口 高
https://twitter.com/ogugeo/status/1621277318886072323

《 ジャパンハンドラーとして名高いCSISアーミテージがTBSのインタビューに答え、「9条がいつも壁となって邪魔してきた」と語っている。日本が米国の戦争に巻き込まれることを9条が阻止してきた証拠だ。
  日本が他国を侵略することのみならず、他国の戦争に巻き込まれることも阻止する、パワフルな条項だ 》 青木 俊 新作「逃げる女」(小学館)発売中
https://twitter.com/AokiTonko/status/1621368589579161601