『雪月花の心』再読・三(閑人亭日録)

 栗田勇『雪月花の心 Japanese Identity 』祥伝社昭和62年6月10日発行の再読を進める。

《 一般に美術というものは、すべてに言えることですが、全体のプロポーションとそれを生かすディテールの美しさ、つまり細かい部分の完成度によって、芸術としての価値が定(き)まります。 》 78頁

《 日本では、一般に肖像画というジャンルはありません。なぜなら、何度か述べたように、日本では一人の人間の個性や性格を描くよりも、その人物の背後にある精神的なものを描こうとしたからです。目の前の人物は、目に見えない魂の仮の姿にすぎないと考えるのです。 》 102頁

《 もちろん、樹木はしだいに変化していくものです。したがって、人は庭園を造ったとき、少なくとも5年、ときには50年、100年たってはじめて、その美しさが現れると考えています。つまり、人間がすべてを造るのではなく、自然の力によって庭が造られていく、人間はその自然に手を貸すだけである、と考えるのです。 》 110頁

《 一般に日本の墨絵は、三つの点でヨーロッパの近代絵画とは異なっています。
  一つはsignificant、またはシンボル、つまり文学的な意味を求めるという点。二つ目はムーブメント、またはトレース、つまり筆を運んだ後、つまり手を動かした後を楽しむという点。三つ目はデコラティブ、つまり装飾性、デザイン性を重んじるという点です。つまり、単に風景を写すのではなく、風景の向こうにある自然と自分との一体感を描こうというもので、画面はその通過点に過ぎません。見る人は画面ではなく、画面を通過して自然の奥へ、自然との共感へと向かうわけです。 》 118-122頁

《 どうして自然に価値があるのでしょうか。仏教えに〈山川草木悉有仏性(さんせんそうもくしつうぶっしょう)〉という言葉があります。自然の山も川も草も木も人間も動物も、生物も無生物も、すべてある巨大で統一的な真理の現われの一様相(いちようそう)にすぎないということです。 》 158頁

 栗田勇『雪月花の心 Japanese Identity 』、再読終了。外人相手の講演録なのでじつに簡明でわかりやすい。感銘しました。

 朝、ぼんやりネットの文面を眺めていて出合った言葉「おまけに職場はセクハラ&パワハラのセパ両リーグ」。吹いた。
 昼過ぎ、知人夫婦に頼まれて、ミニコンポステレオの購入に付き合う。隣町の大型電器店へ。サイズを巻き尺で図り、選択肢は二機種。どちらにしようか迷っている知人の背後の棚のレコードプレイヤーを眺める。安い五機種が並んでいる・・・が、全部売り切れ~入荷未定。人気なんだ。値段の高い機種(といっても五万円ほど)に決め、車に載せ、コーヒーで一休み。

 ネット、うろうろ。

《 バイバイハロー 》 風間サチコの窓外の黒化粧
http://kazamasachiko.com/?p=15411

《 ローマ帝国が科学と理性を捨て、イランやアフガンが自由や平等を捨てていったように、人類史上、あちこちで、社会的、文化的な進歩に逆らう運動は起こっています。今、アメリカの南部で起こっていること(中絶禁止など)はそれだと思います。 》 町山智浩
https://twitter.com/TomoMachi/status/1649188753481830400