『しゃれのめす』ニ(閑人亭日録)

 洲之内徹『しゃれのめす』世界文化社ニ○○五年三月一日 初版第一刷発行を気の向くままに再読。『気まぐれ美術館』と連載とは違って、求めに応じて書かれた長くはない文章ゆえ、道草をしない文章で一気に読ませる。「無名であるということ」。

《 佐藤清三郎(せいざぶろう)について、いまの私は、考えることも言いたいこともあまりに多すぎて、三枚か四枚の短い原稿に書こうとすると、なんとなく途方に暮れてしまう。 》 83頁

《 作者も名前も私には初めてだったが、最初の一瞥で、私はこの作者に魅了された。そして、田部さんにお願いして素描の作品を全部預からせてもらい、東京へ持ち帰った。この作品で、この人の遺作展をやってみたいと思った。
  素描だけ預かって油絵を置いてきたのは、この人は、画家としては体質的に素描家だという気がしたからである。 》 84頁

《 この人の眼は細部から全体へと向かって行き、全体の中で細部を見るということをしないらしい。それはデッサンの常識に反する。だが、そのために、この人の物を見つめようとする切実な眼が、ありありと私に感じられるのである。そして、その眼が画面をパセティックにしている。 》 85頁

《 彼が無名であったということが、ここへ来て、大きくものを言っていることになる。この人が正規の課程を経ていないということまでもである。 》 85頁

 「無名の画家の孤独な死──佐藤清三郎(せいざぶろう)のこと」。

《 東京で、ゆっくり時間をかけて眺めてみたいというだけでなく、人にも見せたい。ここには絵を描くとはどういうことかを、あらためて思い出させ、考えさせる何かがある。 》 87頁

《 だいじなのは、この人の残して行った作品である。七冊のスケッチ・ブックを、私はもう何十回くり返し眺めたことだろうか。素描というものについての自分の考えを、基本から叩き直す必要に、いま私は迫られている。そして、ひとりの無名の画家が時間の中に消えて行き、美しい作品だけが残ったこの事実の前で襟を正す。 》 88頁

 「夭折の画家たち ―新潟の作家たち その3― 佐藤清三郎 新潟市美術館
 http://niigata-eya.jp/eya02/satou01.htm

 朝、源兵衛川中流、三石神社横の茶碗のカケラ、ガラス片を拾う。岸辺のヒメツルソバを抜く。カケラはずいぶん減った。帰宅。汗。ジーンズなどを洗濯。

 ネット、うろうろ。

《 日本は五季あって、ちょうど今が夏ですね。ちなみに7月から始まる季節は地獄です👹 》 父
https://twitter.com/fushiroyama/status/1658359320155922432

《 依存症の人が薬や酒をやめる(やめ続けることができてる)って、こういうことなんよなあ。我慢とか気合いとか根性とか頑張りますとか思いやりとか反省とかダメゼッタイとか人間やめますかとかじゃなくて、生き方が変わること。 》 あかたちかこ
https://twitter.com/akatachikako/status/1658817748603109376

《 道具や機械というものは、単体としての人体や有機体の機構を模して作られたものではなく、複数の人間同士の関係をモノを介して代替したものなのだと『パラジット』でセールはさらっと語っているのだが、この指摘は実に本質的で、なんならANTなどもすべてこの直観からもう出てきてしまう。 》 清水高志
https://twitter.com/omnivalence/status/1658844904708100098

《 作品には作者と作者の世界との距離が表れる。例えば没入感が著しい作品には、底なしの深淵まで開く。ただアタマで造られたなら「それっぽさ」しかなくなる。視える表面と視えない部分とがはっきり分離して張りぼてになる。作品には残酷なくらいその距離が表れる。 》 中島 智
https://twitter.com/nakashima001/status/1659043759647236096

《 作品のなかで運動していく人は、作品が一つの構造(無意識)となって現前するけれど、「作品を作ろう」としてしまう人は、作品制度の再生産にしかならない。後者がアートについて語りはじめると「みんなそれっぽさでやってるよね」というシニシズムに陥ってしまう。 》 中島 智
https://twitter.com/nakashima001/status/1659043910558306309

《 ここにも医療支援のエキスパート「支援者」が。誇るべき「支援者」のお一人です。 》 弁護士高橋済
https://twitter.com/8pLRapKwPwhCGur/status/1659080681413066753