『抽象絵画への招待』再読二(閑人亭日録)

 大岡信抽象絵画への招待』岩波新書1985年5月20日第1刷、「2 現代の抽象絵画」を再読。以下覚え書き。

《 「描く」という行為は、このとき、「生きる」ことと別のことではないと信じられていたといっていい。それは、戦後絵画の最もロマンティックに高揚した時代を代表する考え方だといえた。
  しかし、そこにはまた、高揚にともなう熱狂的自己過信と、その反動としての自信喪失という激しい動揺が生まれずにはおかなかった。 》 53頁

《 「生き方」へのこうした注視と関心は、人間というものを、環境に対して不断に闘いをいどみ、環境を変化せしめることによって自己の変化を実証していゆく存在とみる人間観と、密接にむすびついているものだろう。つまりこれは、画家の描く行為を、美とか醜の観点からでなく、倫理の観点から見るという態度に通じるものであった。 》 57頁

《 「描く」という行為そのものの中に画家の存在全体がたえず賭けられており、画家の動く指の先端は、各瞬間における彼と世界全体との接点であり、最高度の熔解点であるという認識──これは現代の抽象絵画を支える重要な信念の一つであるといってよいだろう。 》 63-64頁

《 この事実は、抽象絵画と呼よばれるものが現代に自己を主張する上で、たぶん最も重要は存在理由となることであろう。 》 69頁

《 興味ぶかいことは、上述のように多様な価値が絵画の中に包摂されてくるにつれ、画面は逆にしばしば単純化してゆくという事実である。》 71頁

《 抽象的な形態というものは、風土の枠を離れても、ある種の普遍性をもち得ると考えてよさそうだが、色彩については、私たちはついにそこで育ち呼吸してきた風土の影響から、逃れきることはできないのではなかろうか。 》 88頁

《 風土的なるものは、こうして「無意識」の世界におけるさまざまな形態のアナロジー発動のバネになっていると想像されるのである。 》 91頁

 日本人画家、外国人画家の名前と作品が次々に紹介されていく。殆どは当然既知。口絵のカラー図版には、芹沢ケイ介、鶴岡政男、菅井汲、堂本尚郎元永定正前田常作加納光於宇佐美圭司。外国人画家は、イヴ・クライン、サム・フランシス、K.シュヴィッタース、J.デビュッフェ、J.ポロック、J.フォートリエ、L.フォンタナ、A.タピエス。列記して気づいた。実作品は殆ど見ていない。実際に目にしたいと願うものはない。

 ネット、うろうろ。

《 頑張り過ぎたり、なんとかしようと抗わない方が上手くいくことが多い!!
  諦めて人生の流れに委ねると案外スムーズにいくもんです♬ 》 うの@ほんとうの自分を生きる
https://twitter.com/1055style/status/1635202789277151232

《 大江健三郎の「セヴンティーン 第二部」(政治少年死す)が出版されて読めるようになってるのを今まで知らなかった。驚いた。 》 森岡正博
https://twitter.com/Sukuitohananika/status/1635342166057967616

《 大前提として、公文書の類いは正しいものである事が当たり前なの。

  だからモリカケの際には改竄が指摘された訳だし、放送法に関しては捏造なんかされてないと捉えて追及されてるの。

  全ての公文書に捏造の可能性ありきなんて事が罷り通ったら、行政なんか出来る訳ねぇだろうがよ。 》 立川雲水
https://twitter.com/tatekawaunsui/status/1635276128570208259

《 2014年3月に「耐え難いほどまでに正義に反する」と痛烈な表現を用いて静岡地裁が出した再審決定に対し、異議を唱えて国(検察庁)として東京高裁に控訴したのは当時の首相安倍晋三だったことは記憶に留め置かれるべきだろう。 》 さよなら昨日の私
https://twitter.com/SaYoNaRaKiNo/status/1635249443028226052

《 田村智子参院議員が国立大学・研究機関の研究者の3月末での数千人雇い止めを直ちに止めるべきと政府追及。国立大学では民間コンサルによる雇い止め推奨研修が行われ、妊娠出産理由の雇い止めまで禁止されていないなどとレクチャー。政府の足もとで「官製マタハラ雇い止め」推奨がされている実態を告発 》 井上伸@雑誌KOKKO
https://twitter.com/inoueshin0/status/1635230192963846144