『空海論/仏教論』七(閑人亭日録)

 清水高志空海論/仏教論』以文社2023年4月20日 初版第1刷発行、後半の「第二部 『吽字義(うんじぎ)考』」を読み進める。

《 本書の主題は初期仏教から密教までの思想的な繋がりを、縁起説と離二辺の思考の歴史的で段階的な再解釈という観点から辿り、その一貫性を浮き彫りにするというものである。空海は当然他の宗派と比べて密教がいかに卓越しているのか、その違いを強調するが、それは『十住心論(じゅうじゅうしんろん)』でより精緻に説かれるものであり、またのちに吽字の合釈でも理論的に語っているので、ここでは立ち入らない。とはいえ、密教そのものについて語った最後の偈頌は興味深いので、引用して翻訳し考察することにしよう。 》 214頁

《 密教の世界観を表現した空海のこの偈が思いのほか唯識や華厳の思想を色濃く受け継いでいることに驚かざるを得ない。(引用者・略)しかし空海はこの偈ではっきりそれを、識(心)と識(心)のうちで働くもの(心王と心数)の関係であると述べており、しかもそれらがどこまでも相互に含み、含まれることを「主伴無尽」で「互相(たがい)に渉入」すると表現している。「含むと含まれる」「一と多」という二項対立はこのように組み合わされるが、この二種の二項対立が合流するところ(珠玉)に、事象(事)の代わりに識(心)が置かれ、また無数に「ものと心」(色心)があることが強調されている。識(心)と識(心)の相互包摂のうちに、マテリアル性が溶け込んで循環する重々無尽の世界、それらが相対・相応する密教の思想においては、「主体(心)と対象世界(事象)」という二項対立も、どちらがどちらを一方的に含み、どちらからどちらが一方的に展開するのでもないかたちで調停されるのだ。 》 216-218

《 第四に来るのが、麼(ま)字である。(引用者・略)字相においてはただ我(atman)を意味すると述べられていたが、あらゆるものは吾我を超えているということが、ここでは説かれている。 》 218

《 空海はさまざまな経を引きつつ、この麼字が字門説において「化身の義」であるとか、「三昧耶(さんまや)自在の義」を持つということを述べている。(引用者・略)空海の言語思想において、一音の文字とスペル、そしてそれによって組み立てられた文やそこから導かれる意味が、ボトムアップの階層性をもたないことについてはすでに見てきた通りであるが、麼字の解釈においてはそれが大日如来の「法身」の身体的なあり方として描写される。 》 221頁

《 つまり瓦礫や石、草木であれ、人、天人、鬼、畜生であれ区別なく、それがすべてに化身して遍満しているというのである。生物、無生物を問わず、ありとあらゆるものが悟りの当体とされるところまでを空海が悟りきったところに、麼字門の大きな特色がある。 》 222頁

《 我(atman)を意味する麼字門において、これほどまでに「世界そのもの」が語られねばならない理由は何であろうか? 》 222-223頁

《 我吾を表わす麼字門のもとに空海が語るものも、空の思想や唯識や華厳を踏まえて仏教的に生まれ変わった梵我一如の思想であるとも見なせよう。もはや、ただ否定を通じてしか表現されない何かでもなく、有の哲学でもない、その双方をどちらにも偏することなく調停し受け継ぎながら、仏教は発生し発展し、そのもっとも肯定的な側面が、密教のうちに姿を現わしているのである。 》 225頁

 すんげえ、麼字・・・マジかよ~と口走ってしまう・・・。

 昨日パソコン~モニターを替え、きょうはいろいろな画面を見る。モニター画面が大きくなり、画像↓の木彫椅子の質感色調もよくなった。やれやれ。
 https://shirasuna-k.com/gallery-2/wood-sculptures-chair
 しかし、まだ操作に慣れない。覚えてもすぐ忘れてしまう。お歳だもの、そんなに早く慣れないか。