縄文土器の衝撃(閑人亭日録)

 以前にも何度か書いているが、一昨年の秋、山梨県立美術館で初めて接した縄文土器から受けた衝撃~感動が、今の充実感の引き金になっていると思う。写真や印刷でしか見たことのなかった縄文土器を間近に見て、一瞬で衝撃を受け、感動した。別にデカイわけではないし、奇妙なものでもない・・・が、この訴求力、惹き込む魅力は・・・。素朴とも稚拙とも違う本質的な生命力。「生きる!」生動力を無自覚、無意識に漲らせている。造形がどうのこうの、という場合ではない。作品にはこういう「生きる!」生動力が必須なのだ、とその時にはまだ気づかなかったが、後日考えを巡らして、やっと到達した。技術や技だけではない。その基礎となる心構え(生動力)こそが、人を感動へ導く不可欠の要素なのだ。
 それまで特に西洋の近代現代美術作品を前にして、なにか居心地の悪さ、座りの悪さをうっすらと感じていた。日本の近代現代美術にもどこか違うな、という違和感を感じていた。私の惹かれる美術作品と、名声のある美術作品との隔絶を実感していた。理窟なくすっと惹かれる作品は、例えば味戸ケイコの絵。例えば北一明の茶碗。そうこう考えていて、味戸、北とも、美術の主流から離れている~外れている作家と気づいた。すなわち、アートビジネス=美術業界からは相手にされない作家。冗長になるので切り上げるが、アートビジネス、それは二十世紀の発想、考えだと思う。二十一世紀になって価値基準が大きく揺らぎ、地殻変動をきたしている、と思う。いや、思いたい。そうでなければ面白くないじゃん。美術鑑賞に商品価値(お値段)、権威のご託宣は要らない。自分がなぜその作品に惹かれるのかを、まず考える。