古谷 嘉章、石原 道知、堀江 武史『縄文の断片(かけら)から見えてくる : 修復家と人類学者が探る修復の迷宮』古小烏舎(ふるこがらすしゃ)2023年8月30日 第一刷発行、石原道知「第一章 考古遺物の修復の現場から」を読んだ。
《 縄文文化を理解する為には、我々が掛けている色眼鏡(バイアス)の本質を見抜かなければ、間違った解釈に陥るのではないかと思われる。 》 59頁
《 写実をしたということを前提にして縄文土器の文様を現代人が復元するのは危険ではないだろうか。むしろ、文様の意味は作った縄文人にしかわからないという態度を徹底したほうが、土器を先入観なしに自由に土器を感じることができ、楽しめるのではないかと思うし、やりすぎて間違った修復をしてしまう勇み足を避けることができるのではないかと思う。
また、縄文土器を芸術作品として見ると、考古学的理解とは何が違うのだろうか。縄文土器を有名にした岡本太郎氏は、火焔型土器を情念の爆発で芸術作品だと言っている。それに対して考古学者の今村啓爾氏は、あのような形の土器は新潟県でたくさん出ていて、部族に共通した公共的な形だという。土器を古い方から順番に並べていくと、文様はマイナーチェンジを繰り返して、洗練さを加え、だんだん火のような形に成長していく。何年かかるのかはわからないけれど、色々な人が手を加えていった変遷の結果で、だんだん火炎のような形になっていくが、今村氏はそれを部族の形であるという。 》 59頁
《 縄文土器の文様は、一人の人間の自己表現である現代的な芸術作品とは違って、部族の共通した形で、過去の作品をアレンジする、またその作品を次世代の誰かが模倣しアレンジする、ということを繰り返していく。アレンジの部分が自由裁量の部分である。一人の製作では無く、部族の集団的オートマティズムとでもいえそうな生成プログラムである、 》 60頁
《 縄文土器は作者が作っているのか、それとも自動的に現れる現象なのか、あるいはその中間か。意識と無意識の間にあるのかもしれない。だとすれば、あまり文様に意味を求めても仕方が無い、ということにならないだろうか。 》 74-76頁
深く納得。
裏手のお寺の金木犀が一気に開花。甘~い金色の芳香。