『縄文の断片から見えてくる』三(閑人亭日録)

 古谷 嘉章、石原 道知、堀江 武史『縄文の断片(かけら)から見えてくる : 修復家と人類学者が探る修復の迷宮』古小烏舎(ふるこがらすしゃ)2023年8月30日 第一刷発行、堀江武史「第二章 修復からみた縄文土器の「わからなさ」」を読んだ。じつに刺激的で興奮する。

《 生きるために作られた道具の生成には、なるべくしてなったかたちがある。石器などがその類でまだわかりやすいが、土器や土製品にはわからないものがたくさんある。社会の必要性から生まれたものとはいえ、私の知らない造形思考によるつくり手の感性と技術があのかたちをつくり上げたようにも思う。 》 100頁

《 縄文遺物の特徴は非写実性にあると思うのだが、現代人はこれに写実的で具体的な見立てをしてわかろうとしている。 》 101頁

《 私はこれまで修復家の視点で様々な縄文土器を見てきたが、常に感じるのは、非写実性と予測不能な文様の施し方である。 》 116頁

《 私は修復家や一般鑑賞者をその気にさせてしまう「名称マジック」が、実のところ縄文文化理解の道筋を違う方向へ向かわせているのではないかと考えている。 》 116頁

《 写実絵画の無い時代、それは縄文時代である。では立体的な遺物は写実的だろうか。それが何を表しているのかを他者が認識でき、かつ共感できるものを写実表現とするならば、そうした表現を縄文人は行わない。 》 118頁

《 興味深いのは、つくり手が「向こう」に合わせつつも個人の独創とも違う、普遍性の中に意想外なものを出現させることである。 》 122頁

《 視覚で得た三次元の情報を二次元に処理し、絵筆を持った手を動かす中枢神経系のアートとは別の、頭を介さずに皮膚が即応するアートも確かに存在するはずである。 》 137頁

《 素材の持つ先導力に応答するとは、まさに「向こう合わせ」の姿勢である。必要なのは知識というよりも感性である。感性が物質の形状なり霊性なりに導かれてかたちをなしていくのである。 》 138頁

《 縄文人が自ら変えることのできない規範と素材。縄文人がものを作る際の「向こう合わせ」は非写実性を伴う。そしてどうやら縄文人はその感性、技術を「向こう」に合わせることで「見えてくる」「現れてくる」ものに心を動かされるようである。 》 148頁

 これは白砂勝敏さんの制作の姿勢に通じる、というかそのまんま、という気がする。まさに私のいう「縄文4(フォー)」、現代に縄文の谺を感じさせるの四人の、一人に相応しい。

 午後、三島市役所などへ「三島ゆかりの作家展」のチラシを持っていく。皆さん、興味を持ってくれる。期待してしまう。