「現代美術への道」、高階秀爾「新しい芸術の胎動──第一次大戦まで」を読んだ。
《 ルネサンス以来四百年間にわたって生き続けてきた人間中心的な写実主義の世界は、印象派による光の導入という事件によって、まるでトランプのお城のように崩れ去ってしまった。その後に生じた混乱は、そのまま20世紀を生み出すための実り豊かな混乱であった。普通には世紀末芸術という名で一括して呼ばれる1900年前後のこの混乱の中から、やがて現代美術の最初の革新の烽火があげられることになるのである。
前後で8回行われた印象派グループの最後の展覧会が開かれたのは、1886年のことである。この時から1890年代にかけて、芸術のさまざまな分野で、はっきりと写実主義とは違う新しい傾向が生れかけていた。 》106頁
《 事実、この時代ほど、新しいものへの熱望と期待が、強く芸術家たちの間に行き渡っていた時代は、他に例がない。みずから「新しい芸術」と名乗った「アール・ヌーヴォー」の動きは、その典型的な──しかし他にも数多く見られた動きのなかの──ひとつの例である。 》106頁
《 そして、そこから生まれてきた最初のまとまった芸術運動が、フランスのフォーヴィズムとドイツの表現主義だったのである。
フォーヴィズム(野獣派)の最初の登場は1905年のサロン・ドートンヌにおいてであった。もっとも、1905年というこの時点においては、彼らはかならずしも意識して芸術団体を結成したわけではない。(引用者・略)ただ彼らはいずれも、従来の型にはまったアカデミックな表現を否定し、自由奔放な色彩世界をカンヴァスの上に展開してみせるという点で共通していた。(引用者・略)そして、そのためにいっそう、彼らは激しい非難と嘲笑を浴びることになった。 》106頁-107頁
《 事実彼らは、自分たちの試みが、それまでの絵画の歴史の常識を完全にくつがえしてしまうものであることを、はっきり自覚していた。 》107頁
《 20世紀芸術でしばしば語られる「デフォルマシオン(形態の歪み)は、彼らにとって、画面の秩序のために、どうしても必要不可欠なものだったのである。 》108頁
《 ドイツ表現主義の最初の烽火は、奇しくもフォーヴィズムの誕生と同じ1905年に打ち上げられた。 》108-109頁
《 ただ、ドイツ表現主義の場合、フランスのフォーヴィズムと比べて、いっそう内面的であり、心情的であったという違いがある。 》109頁
《 第一次大戦の勃発とともに、表現主義の各グループは解体してしまうことになるのだが、その直前の時期において、芸術ははっきりと新しい方向を示していたのである。 》110頁
《 運動としてのフォーヴィズムの動きは、決して長くは続かなった。「フォーヴ」という名称が生まれてから二年後の1907年には、もうひとつ別の新しい芸術の胎動が始まっていた。言うまでもなく、この年に、ピカソのあの〈アビニョンの娘たち〉が描かれているからである。それはやがて、「キュビスム」と呼ばれる美学にまで発展していくこととなる。 》110頁
《 そのキュビスムの美学の最初の創始者は、ピカソとブラックであった。》110頁
《 このような分析的キュビスムの論理は、人間とか静物とかいう現実に存在するものを相手としながら、それらを、強引に二次元の平面の秩序に従わせようとしたものである点において、やはり絵画というものをその本質的原理に還元しようとした試みであったと言ってよい。遠近法とか、明暗とか、肉付けという「幻影」は否定され、厳として動かし難い二次元の平面のみが強く自己主張するようになったからである。しかし、その結果、ばらばらに「解体された」対象は、画面の上で、もはや原型をとどめないほどになってしまった。 》112頁
《 徹底的に平面化され、二次元化された画面にはいりこむためには、「現実」の方も平面的なものでなければならない。このようにして「コラージュ」が登場し、総合的キュビスムの時代にはいっていくことになるのである。 》112頁
《 このようにして、第一次大戦直前のヨーロッパには、パリ、ドレスデン、ミュンヘン、ミラノなどいくつかの主要都市において、従来の美意識を根底からくつがえすような試みがつぎつぎと行われていた。 》113頁
《 このようにして、きわめて多彩な国際的色彩の強い芸術家集団が、大戦前夜のパリに登場した。その彼らを全体としてひっくるめて──時にはそれにフランスの画家たちを含めて──「エコール・ド・パリ」という名前で呼ぶようになったのである。 》114頁
《 現実世界の制約から離れて、それ自体の自律性を求めた芸術は、第一次大戦前の時期において、いわばその独立宣言だけはすでに勝ち取っていたと言えるのである。 》116頁
窓を全開にして昼寝。涼しげな風が吹き抜ける心地よさ。夏の終わりが近い。