求める・求めない

 新年会の打ち合わせメール。早! 仲間たちは再会を求めている?
 それで思うのは自身、人との絆を求めつづけていたこと。二十世紀はいろいろな場所に出入りして数多くの人に出会った。出会いを求めてだが、それから先の絆=生きている実感の確かな手ごたえを求めていたと、今頃になって気づく。求めて求められるものではないと気づきつつ、求められずにはいられなかった。それは欲ともつながるかもしれない。でも、欲望というより渇望。渇望・希求の果てに待ち受けているのは落胆と絶望。渇望・希求と落胆・絶望の繰り返しの二十世紀=五十年の暗夜行路だった。人生は五十一から、とは文筆家小林信彦の言葉だけど、私には人生は五十五から、だった。五十五歳になってなんか諦観が生まれた。渇望・希求の強い心持が減退した。敢えて求めない、佇む姿勢になった。で、どうなったかというと、日常が開けてきた。一日一日が意味深く感じられる。分相応ということを自覚したからか。そんな五十七歳、どこへ流れてゆく?

「評論はともかく、バタイユの小説の翻訳は読まれるものがない。おそらく、なにひとつないのではなかろうか。バタイユに限らない、ブルトンマンディアルグについても同様のことが言える。しかし、そのことは掘り下げない、掘り下げて書けば身の回りが敵だらけになるに違いない。」
 と書く人がいる。相当な自信がないと書けないことだ。知人たちはそのバーに行っているけど、私は行ったことがない。翻訳といえば、リルケロダン」の訳がどうにも合わない。ひどい翻訳だ、と断言したくなる。そういえば、日本語を韓国語に直接翻訳するよりも英語に翻訳されたものを訳したほうが楽だと韓国人から聞いた。面白いことだ。

 アナイス・ニン「小鳥たち」新潮文庫を読んだ。ファンタスティックにしてリアルな官能小説だ。求める男女の機微の参考書としてかなり有用だと思う。矢川澄子の訳は流麗だ。