戦争画

 昨晩の日本テレビ系列番組「レオナルド・ダビンチ巨大壁画を今夜発見」、隠された戦闘画「アンギアリの戦い」の想像図を観た知人女性から、鳥肌が立ったと電話。血みどろの凄惨な戦闘場面から私が連想したのは、藤田嗣治戦争画。「アッツ島玉砕」1943年はその昔、東京国立近代美術館の常設展で観た。眼が釘付け。これぞ藤田嗣治だ、と感銘した。
 手元の「芸術新潮」1995年8月号には藤田の「アッツ島玉砕」、「サイパン島同胞臣節を全うす」1945年などの絵が掲載されている。ダビンチの壁画での戦士の殺意丸出しの表情に、「アッツ島玉砕」の兵士の鬼気迫る形相が重なって見えた。そして藤田嗣治の幻の大作。
「画面全体をおおうように赤黒い炎が燃えあがっている。その下には、日本兵の死骸が累々と横たわっている。ソ連軍の戦車が、その死骸のうえを冷酷無残に踏みにじりながら通り抜けようとしているのではないか。」30頁
 どこかに秘匿されているのだろうか。幻の名画争奪戦小説、誰か書かないかなあ。

 きょうで毎日新聞を退職する美術記者三田晴夫の数日前のコラム「ノートから」のお題は「なぜ現代美術なのかと自問して」。
「自分は決して、時代の最先端に立つ新しさを信奉してやまない進歩主義者ではなかった。はたまた現代美術への偏見や誤解をいさめようとする、啓蒙的伝道者を志したわけでもなかった。」
「ただ、美術を価値づけるのに、『わかりやすさ/わかりにくさ』が基準となっていることが、とても奇異に思えただけなのだ。」
 ワカル/ワカラナイが、美術作品を前にしてよく言われる。その枠組みを変換しなくては、現代の人々はこの創造の現場から遠ざかってゆくばかりだろう。私は、カンジル=共感の枠組みを作りたい。理解/理解不能ではなく、カンジル/カンジナイの枠組み。共感も反発も感じなければ、その作品は、鑑賞者にとって縁の無いもの。感じるところから、美術作品への道筋を見出してゆく鑑賞法こそが焦眉の急だと思う。それは、昨日触れたトマソンを見出す方法に通じる。