美的時熟

 昨日の松岡正剛『フラジャイル』筑摩書房1995年の末尾に「時熟」という言葉が出ていたので、大橋良介『時はいつ美となるか』中公新書1984年初版を読んだ。

≪「時はいつ美となるか」というのは、「時熟」という問題を「美」の領域に限定したときに出てくる問いである。時熟といえば聞き慣れないが「時が熟す」といえば誰もがその意味を知っていよう。≫ジャケット折り込み

ルネッサンスとはヨーロッパ世界に差しこんできた「光」のようなものである。少なくとも多くの人がそう感じた。そこから逆に、この光にまだ照らされていない中世を「暗黒」の時代と呼ぶことが慣わしとなった。けれども、その暗黒の中世に成立したゴシックもまた「光」の原理に基づいていることは、すでに見た通りである。中世から見れば、この光が薄らぎゆく近世こそは「暗黒」への没落と映りはしないか。≫138頁

≪夜行性の動物にとっては、物を見えなくする眩しさは暗さにほかならない。そして物の見えてくる夜の闇こそが彼らにとっての薄闇と本質的には変わらない。そこでは、光が射すということは決して絶対の明るさとはならない。≫138頁

≪美的時熟の破れたところでは、芸術作品は単なる美ではなくて、「破れた美」を表現する。「制作」するということは、「破壊」することと一つになる。大まかに言って、二十世紀の芸術全体にそういう特徴が感じられる。≫175頁

≪それでは、生がそれ自身で良きものであると教えたはずの芸術はどうなるのか。それを教える芸術は、近世の美的時熟という出来事となった。その美的時熟が没落したところでは、芸術はなおも何を制作するのか。答えならぬ答えを、ゴッホの『烏のいる麦畑』が描いている。芸術は、制作するとともに破壊するのである。それも、何か特定のものを破壊するのではなくて、破壊的なるものそれ自身を表現するのである、と。この破壊的なるものの迫力が、ゴッホの狂気の迫力でもある。美的時熟はここに終焉する。それは近世の終焉である。それは様式なき現代の一つの予告でもある。≫182頁

 ネットの拾いもの。某店にて女性二人。

≪左の帳場では、ご婦人とおばあさんがマシンガントーク中。私の入店により一瞬静かになったが、すぐに二人でマシンガンを掃射再開。どうやら弾倉は無限のようである。≫

 チョイ悪オヤジのギャグかと思った商品。

≪男のチョイ割る強ソーダ