鹿野島義子展初日

 午前十時前に早、来館者。十時半には満車状態。外へ出ればエリカが咲き出していた。

 エドゥアール・マネ晩年の名画『フォリー=ベルジェールのバー』1881年-1882年作を東京の「コートールド・コレクション展」で観たのは、前世紀のいつだったか。この絵の前に立ったとき、立ちすくんでしまった。胸が震えた。名作だと直感。何故にこれほど衝撃的だったのか。

 昨夜、小林康夫松浦寿輝編『表象のディスクール1 表象 構造と出来事』東京大学出版会2000年初版、小林康夫フーコーのマネ論 無の眼差しと盲目の眼差し」を読んで、得心がいった。

《 この絵の魅惑の一切はこの眼差しにある。マネの絵の人物のほとんどがそうであるように、このバーメイドもなにも見ていない。》30頁

《 マネは、まさに彼女にこのような無の眼差しを与え返すためにこそ、彼女を周囲の喧騒の空間から、彼女自身の影から引き離し、遠近法的な空間構成の法を破って、彼女をタブローの中央に、そして正面へと向き直させたのではないだろうか。》30頁

《 フーコーが語ろうとしたことは、ある意味では、マネにおいて、作品の起源に想定される表象世界を見る作家の眼差しから、オブジェとしての作品を見る者の眼差しへの優位性の転換が起き始めているということである。》35頁

《 が、かといって、いくつかの、複数の視点に送り返して、そこから絵画が表象ではなく、オブジェとなるような道を開くというわけではない。そうではなくて、そうして送り返す視点の分散が示すもの、とりわけけっして単なる「記号」などではありえないマネの描く人物の眼差しが送り返すものは、現実の知覚と表象のあいだ、その一瞬の無のあいだに、垣間見られる「無」の湧出にほかならないとわれわれには思われるのだ。》37頁

 この論述の元本となったフーコー『言葉と物』新潮社をそろそろ読む時期が来たかな。ブックオフで105円で購入済み。