気温は先月並みだけれど、陽射しが日増しに強くなって、コートが重く感じる。でも、まだ手放せない。手放していいのは古本。だけど、不要本はまだ両手で足りる。美術館へ泡坂妻夫『奇術探偵 曽我佳城全集』講談社2000年2刷を持ってくる。贈呈用。
昨夕帰りがけにブックオフ長泉店で二冊。川本三郎『東京暮らし』潮出版社2008年初版、佐伯一麦『ノルゲ Morge 』講談社2007年初版帯付、計210円。「美術館を歩いて町のなかへ」といったもくじに惹かれて『東京暮らし』を購入。さっそく読んでみた。
《 ささやかな東京散歩になった。》「美術館を歩いて町のなかへ」
《 宵曲はあくまで作品を味わう人。鋭利に批評し、裁断する人ではない。》「柴田宵曲のいた時代」
《 『蕉門の人々』などは十分、評論になっているが本人は、これは研究でも考証でもない、ただ作品を通してその人を知ろうとする一つの試みに過ぎないとあくまでも謙虚。》「柴田宵曲のいた時代」
岩波文庫の『蕉門の人々』『古句を観る』は棚にある。来年の今頃読んでみたい。
《 自分の好きな世界のことだけを丁寧に書く。敬愛する文人のことだけを書く。自ずと文章に穏やかな品が生まれる。》「柴田宵曲のいた時代」
この本の印象だ。
《 新宿に出た折り、夕暮れ時、ビールが飲みたくなると、その食堂に入る。テレビの相撲中継など見ながら、冷やっこを肴にビールを飲む。都市生活の幸せなひとときである。》「大衆食堂」
来年はこんなこともしてみたい。山間には住めないわ。
《 よく仏像は作るのではなく、すでに木のなかにあるものを彫り出すのだ、という。引用という行為はそれに似ている。》「引用の楽しさ」
引用するのは楽しい。今展示中の白砂勝敏氏の木彫椅子オブジェについていえば、これぞ「すでに木のなかにあるものを彫り出」した作品だ。仏像の場合、円空仏などの少数を除いて、木は素材という印象が拭えない。が、白砂氏の木彫は、木が無意識に望んでいるカタチに仕上げた、という印象を強く受ける。木を活かすとは、こういうことだ。実際に手で触れてみて、多くの人が納得する。
ネットの見つけもの。
《 フグの価格破壊がはじまりそうである。》
お相伴にあずかったのは三昔も前。落ち着かず、賞味どころではなかった。楽しみ。
《 「聡明な女は料理がうまい」という本が80年代にベストセラーになりました(かれんママ著)。
「顔と料理は比例する」という本を2012年に、どなたか出してみてはどうでしょう。
この法則が真理なら、個人的にはぜひ、鳳蘭の料理、香里菜の料理、を食べてみたい。派手そうだ。》