8日のブログを読んだ新聞記者から「アート名店街」の問い合わせの電話。アートで街を活性化といっても、私の考えは多分、他の街とは違う。三島市のドブ川だった源兵衛川を生態系の豊かな清流に変えたことも、私にはアートの一環。それが結果として街の活性化を招いた。まあ、清流に戻せば街に人が集まり活性化するだろう、とは予想していた。
アートとは、それに接する人の心が活性化することだと思う。アート作品は、心を活性化させるもの。源兵衛川は、多くの市民の手で創りあげたアート作品だと、私は思う。
沼津市のアーケード名店街は、当時の最先端のモードが少しずつ古びて生まれた深い趣がある。その魅力に気づいている人はわずか。アート作品を対峙させる、添えることで、その隠れた深い趣を惹き出そうと思う。
高浜虚子『俳句とはどんなものか』角川ソフィア文庫2009年初版を読んだ。簡潔平明にして凄い本だ。必要不可欠の俳人以外はことごとく、俳諧史の暗黒の裡に葬ってしまう。この潔さ、というか豪腕というか。脱帽。
《 小説家として有名な西鶴も、元禄の俳人として忘れさることはできないわけなのでありますが、やはり暗黒の裡に葬りさっておきます。 》104頁
知らない言葉に出合う。
《 初午、蓬餅、出代。……人事に属する季のもの 》38頁
出代? ネットには「でがわり(出代り)」とある。
《 1 前の人が出たあとにかわってはいること。入れ替わり。
2 奉公人が契約期間を終えて入れ替わること。 》
《 海士(あま)の家(や)は小海老(こえび)に交じるいとどかな 芭蕉 》
《 同じく海老のごとく長い脚をしてぷいぷい飛んでいるものがあるのは何かと見ると、それはいとどであるというのであります。 》101頁
ネットによれば「いとど」とはカマドウマの古語。えびこおろぎ。おかまこおろぎ。秋の季語。
紹介されている俳句に虚子の俳句を合わせてみる。
《 秋の空澄みたるままに日暮れたり 亜満 》
《 冬の空少し濁りしかと思ふ 虚子 》
《 藁積んで広く淋しき枯野かな 尚白 》
《 遠山に日の当りたる枯野かな 虚子 》
《 初蝶の小さく物に紛れざる 白雄 》
《 初蝶を夢の如くに見失ふ 虚子 》
《 鶯の身を逆様に初音かな 其角 》
《 春水に逆さになりて手を洗ふ 虚子 》
深見けん二が解説で書いている。
《 句の表面に表現された事実から、その句の奥にある感情を汲みとるということは、虚子の終生考えていた、平明にして余韻ある句への指向と結びついている。 》
ネットのうなずき。
《 プロが、「それで飯が食える事」を定義とするならば、世間に受けなければいけない。しかし、「受ける」と「受ければいい」とは違う。「世間に受ける」と、「自分の創作」のバランスを知るのだ。とても難しい事だけれど。受ければいいだけの創作には先がない。(小池一夫) 》
《 これから気合いいれて仕事読書をするが、10分後には爆睡してる自分が見える。 》
ネットの拾いもの。
《 うちのおかん。 近所の奥さんが連れてた犬を見て 「あらー、かわいいわねえー、ポインセチア!」 ポメラニアンです。 》
《 莫言の読み方が判らないなんてモー・イエン 》