「そうだったのか現代思想」

 最近、鉄子鉄女をよく目にする。今朝も数人の女性が、そばの踏切から広小路駅を写真に撮っていた。撮り鉄が多い。というか、それしか眼に入らない。

 千円の図書カードがあったので、本屋でウィリアム・H・マクニール『戦争の世界史 下』中公文庫2014年初版帯付を購入。1299円。日本の部分を読みたかった。

 小阪修平『そうだったのか現代思想講談社+α文庫2006年9刷を読んだ。

《 ちがった価値観をもった人間同士を最終的につなぐのは言葉であり、言葉のなかに含まれる真理である。意識してかどうかは別にして、こういうかまえが哲学の発祥にあったと思います。 》 445-446頁

《 この普遍という言葉自体は、アリストテレスが整理した言葉で、「普遍」と「特殊」と「個別」という対比で使われます。一般とか共通とはどこがちがうかというと、たんなる共通性だけではなくて、いろんな個別のものに「根拠を与えている」という意味があります。 》 448頁

《 もし、言葉にたいする信頼がまったくないところでいろいろつきあっていけば、人びとは経済的システムによってつきあうしかないわけですからね。 》 482頁

 現状じゃないかい。

《 そこで重要なことは待つこと、熟すこと、そぎ落とすこと、わからないものはわからないものとして余裕をもつこと、わからないことにたいして開くこと、目的をあんまりかんがえずにバラまいておくこと、根本的に受身であること、などです。 》 479頁

 私のやってることじゃないかい。

《 倫理というのは自己と自己との関係をそのなかに含んでいるということです。その自己と自己との関係がどのように他人に適用されていくのか、あるいは他人との関係がどのように自己のなかに折れまがっていくのか。 》 458頁

《 だから、倫理というのは人間にとって普遍的な道徳ではない。ある意味では倫理というのは、他人から見れば非道徳的な行為のなかに、その本人とっての倫理的な姿勢が表現されることもありえるんだろうと思います。 》 459頁

 ネットの見聞。

《 この場合の倫理教育って具体的に何をするの? その教育をできる専門家はどこに育ってるの? →「文部科学省は国内の大学や独立行政法人など研究機関に所属する大学生や研究者に倫理教育を義務付ける方針」 》 森岡正博

《 テレビや新聞の報道はエキセントリックに声を張り上げ、しかも虚偽の情報を発信し、事実を歪めて報道しています。それに対して、学生たちや市民たちの対話は柔らかく、思慮深く、知性的です。この対比こそ私が最も印象づけられたことです。 》 佐藤学
 http://blog.tatsuru.com/2014/03/29_0926.php