洲之内徹『さらば気まぐれ美術館』新潮社1988年4刷を読了。
《 そこからテンポということを私は考えたのだ。音楽の理論については全然何も知らない私が こんなことを言ってよいかどうか分らないが、ベッシー・スミスの歌では、テンポは彼女の内に あるのだ。カッタン、カッタンとタイムを刻むメトロノームが外にあるテンポだとすれば、 それとは別種の内のテンポというものがあるのではなかろうか。あるいはテンポが外にある場合と 内にある場合があるのではあるまいか。/ 絵でもそうかもしれない。 》 「なんべん話を聞いてもおんなじや」219頁
《 私は心を見たがっている。心のある世界に触れたがっている。 》 「倍賞千恵子だいすき」244頁
《 どの馬も、前脚と後脚の関節が同じ方へ曲っている。芝居の馬ならいざ知らず、本物の馬でこんなことは あり得ない。しかし、あり得ないそのことで、絵の中のこの馬たちは走っているのだ。もし、この馬たちが 解剖学的に観察された正確なデッサンを持っていたら、この運動感は生まれなかったろう。絵に描かれる物の 運動感は、運動する物体のリアリティーを、むしろ抑制する方向に働くものなのだ。 》 「暮れの雪」253頁
デッサンが狂っている、とは絵の評でよく耳にする発言だが、デッサンに振り回されるのではなく、 デッサンを振り回せ、だ。昨日話題の内野まゆみさんが昔、板に細筆で描いた二十センチ四方の馬の絵が手元にある。 左前脚後脚の三本はすっと伸び、右前脚だけを曲げ、全身にピーンと張った緊張感が漲っている。出走前の競走馬だ。 走り終えた馬ではない。馬の頭部は実際よりも小さく描かれている。常識人からはデッサンが狂っている、 と言われよう。だが、これだからこそ絵のリアリティーがある。面白いものだ。昨日の引用が浮かぶ。
《 つまり、いつもこの美しさは何だろうと思うのだが、物が物を超えてその物以上の物になるとき、 物は真に美しいのかもしれない。それが抽象ということかもしれない。 》
それを実感させる小さい絵だ。
《 展覧会を見に行けば、大きな声を出した者が勝ちというような絵がずらりと並んでいる。 この居心地の悪さ。どちらを向いても私は生きた心地がしない。どこにもこの身を託することのできる リアリティーがない。 》 「雪の降り方」258頁
団体展に出品するある女性画家が言っていた。二百号の絵でないと負けるのよ。退散退散。
《 絵は強いようで弱い。 》 「〈ほっかほっか弁当〉他」278頁
粗雑な筆触を力強い筆遣いとか言って褒めそやしている場に遭遇することがある。 強さをただ追求するだけでは強い画面はできない。
《 笑ってはいけない。ヘナヘナのボール紙に描いてあっても堅固なぶ厚い材質に見えたということ、 これが本来のマチエールだ。 》 「誤植の効用」301頁
誤植といえば。
《 私は、小泉清の顔を見ながらベッシー・スミスを聞く、ある暗号のようなものを不思議に思った。 》 「みんな行ってしまった」168頁
「暗号」は「暗合」ではないかと思うのだが、この本は四刷。誤植なら訂正されているだろう。
この本に出てくる画家、現代画廊に勤めていた女性には会っているが、現代画廊を訪問したことはない。 洲之内徹にも会ったことはない。
「回想の現代画廊」刊行会『洲之内徹の風景』春秋社1996年初版をパラパラと読み、『SUMUS 5号 特集 洲之内徹 気まぐれ美術館』2001年を開く。
《 洲之内は画商としては失格で、絵をけっして高く売らない癖があった。完成期より初期の作品が好き、 とい偏向もあった。 》 岡崎武志「その絵を私の人生の一瞬に見立てて 肥後静江さんに聞く」
ヴァーノン・リー『教皇ヒュアキントス』国書刊行会についての書き込み「紙の本の贅沢感ある」に激しく同意。 読書の快感に襲われて三カ月、『さらば気まぐれ美術館』読了でその熱が収まってきた。
ネットの見聞。
《 だが本来イメージを定着することで成立する絵画においては、動きを表現しようとするのは、 本質的に矛盾を孕む。逆に言えば、そこに画家の腕の振るいどころがあるだろう。 》 高階秀爾『ニッポン・アートの躍動』講談社
《 つまるところ菅官房長官の発言は「集団的自衛権を合憲だという憲法学者はいる。 ただし、みな日本会議の人間だ」と要約すべき発言なのだ。 》 HARBOR BUSINESS Online
http://hbol.jp/45061
《 英語のみで公表されていた福島第一原発「港湾外」海水データ!! 「F1 Issues」の謎を追え!! 》
http://keibadameningen.cocolog-nifty.com/blog/2015/06/f-50cc.html
ネットの拾いもの。
《 新遺産「失敗遺産」 》
《 「信頼関係」と「寄生し合う関係」 》