昨日、椹木野衣氏の焼き物への考えに異論があると記したが、それは北一明の焼きものを対置して 思ったこと。北一明の茶碗は、椹木氏の視野の外にあると、考えている。北一明の茶碗は、世界、 宇宙を容れる虚の器、歴史を反映する器、と私は考えている。俳句に通じるかな。 椹木氏はK美術館で味戸ケイコさんの絵を鑑賞し、『美術手帖』にレビューを書いた。常設展示の 北一明の作品も見ていると思う、ちがいない。しかし、焼きものは氏の関心領域の辺境にあったのでは、 と感じる。北一明以前の茶碗は、茶を受ける(入れる)器という実用性を超えるものではない。 北一明の茶碗は、茶碗のかたちをした超時空的造形物、とでも仮に呼ぶほかにないもの。宗左近は 「韻石」と呼んだが、それもまた、それまでの茶碗の概念を超越したものだからだろう。
つづいて引用した「レッサー・アート(小さな芸術)」。これぞ、私の考えるこれからのアート。 北一明の焼きものも、味戸ケイコさんの絵も、林由紀子さんの銅版画も、私の両手に乗るもの。 手に余るものは……要らない。
《 死と笑いを重視し、わたしたちの生を根本から見直すような芸術しか、要らなくなるのではないか。 》
そうだと思う。味戸ケイコさんのデビュー前の銅版画を、この前書いたように、友人知人は好まない。 美術に求めるものの違いを痛感。その味戸さんの銅版画は背中を冷やっとさせる。前からではなく、 背後に不意に滴ってくる水滴のようなもの。北一明のデスマスクは正面から向かってくる。味戸さんは逆。 対照的なのが、先月に見た田村映ニさんの新作ボックス・アート。先月の21、22日に書いている。 白砂勝敏さんのオブジェも加えたい。どれもこれからのアート・シーンで何かしらの位置を得る気がする。 1945年に亡くなった木版画絵師小原古邨が、今世紀に入って急に見直されてきたように。てことは、 先は長いか。いや、時代は急速に動いている。さて、どちらへ動いているのか。こういう賭けは好き。
ネットの見聞。
《 「米軍の要請、ニーズには憲法を踏みにじってでも、国民の生活を破壊してでも真摯に全力で取り組むって、 これ、独立国家と呼べますか?」─。 》 山本太郎の国会質問
《 「第3次アーミテージレポート」では日本に対し、原発再稼働、TPP推進、秘密保護法、 武器輸出三原則の撤廃、そして集団的自衛権の行使容認が「提言」されている。山本議員は、安保法制も、 そのベースとなっている日米新ガイドラインの合意も、この報告書(第3次アーミテージレポート) の実現のために進められているのではないか、と質問した。 》
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/258755
ネットの拾いもの。
《 機械に奪われそうな仕事
↑
裁判官→理由→判例をパソコンに入れたら懲役云々が出てくる
前例しか認めない裁判にはこれで十分 》