『現代芸術の言葉』続き

 昼前、美術好きの方が来訪。久闊を叙す。北一明などの情報交換。閉まっていた東京神田の画廊の再開を知る。で、お昼。 一人即席ラーメンを変更、近くの小さな蕎麦屋、宗へ。

 大岡信『現代芸術の言葉』晶文社1967年初版、後半を読了。「演劇とその『言葉』 現代演劇の夢と現実」から。

《 言葉はいつ、いかなる場所で、突如そのような、たった今生まれたばかりの無垢な生命体として出現するか 分からない、不思議な潜勢力なのである。古い言葉が新しくなるというのはそういくことを指すのであって、 決して新しい語彙を発明することではない。言葉は発明されるものではなく、発見されるものである。そして、 発見された古い言葉は、発見という主体の行為によって、すでにその日常性を洗い落とされているのである。 》 84頁

《 僕がここでいう詩人とは、そういう生活の情緒的気分の巧みな操縦者ないし演出者ではなく、言葉を非日常的次元に おいてただ一回限り、永遠に、生かすことのできる能力の持主にほかならない。 》 84-85頁

《 それは、演劇の中に興奮を求めるよりはむしろ認識を求める態度の一帰結であるともいえるだろう。 》 89頁

《 その陶酔は、およそ歓喜や熱情に基づく陶酔ではなく、逆に、普遍陶酔的と考えられているすべての人間的な 感情表現を一切拒絶した、いわば裏返しにされた陶酔、幻滅と覚醒がもたらす、認識の陶酔というべきものであった。 》  91頁

 北一明の陶彫のデスマスクを思う。

《 河原ものと蔑視されたのは、単に日本だけの現象ではない。社会が俳優を蔑視したのは、実は俳優の中に保たれている はずの、反社会的、超人間的な力への恐れからであって、蔑視は社会の恐れのあらわれ、自己防衛の形式にほかなかなかった のである。 》 92頁

 「眼の詩学」より。

《 ある作品の前に立って、そこに深さを感じうる場合と、感じ得ない場合があるのだ。そして、深さを感じ得ない作品は、 少なくともその作品を見ている僕にとっては、観念の物質化に成功していない作品であり、言いかえれば一個の物体に すぎない、「作品」とはよぶことのできないものにほかならない。 》 96頁

《 奥行きや深さは、たしかに画家がその手で生み出したものだが、それは物質的な延長の概念で測定するわけにはいかない ものであり、つまり、精神の活動領域、いいかえれば限定不可能な領域に属するものである。 》 104頁

 呉一騏さんの水墨画にはそれを強く感じる。
 http://www10.plala.or.jp/goikki/index.html
 http://web.thn.jp/kbi/go2.htm

《 僕は、絵画というものに真に自覚的に接しはじめたとき、明らかに、絵の中に、ある「遠さ」の感覚、「無限」の感覚を 求めていたこと、言いかえれば、絵の中に宗教的あるいは「他界」的なものの象徴を見ようと欲していたことがわかる。 》  110頁

 味戸ケイコさんの絵に「他界」的なものを感じ、一層惹かれた。

《 絵画の中から虚妄な「深さ」や「無限性」を締め出そうとする衝動が、二十世紀美術のひとつの有力な推進力でさえ あったこと── 》 110-111頁

《 二十世紀美術の代表的存在であるピカソにおいて、この衝動はとくに著しく、彼の中には「深さ」とか「無限性」への 敬意のこもった配慮は、まるでひとかけらもないように思われるほどだ。 》 111頁

 1907年の『アビニヨンの娘たち』以降のピカソの絵からは「あがき struggle 」を感じてしまって、どうにも引いてしまう。 悪あがきのように感じることもある。

《 たとえば、ものの輪郭を示す線というものは、実をいえば、自然界にも、画家の眼の中にも実在してはいない。それは、 画家の中に生じた自然のイメージが、手を通じる行為の中で可視化され、物質化されるときにとる、それ自身以外の何物にも 似ていない、何ものとも置き換えることのできない、自律的な、新しい自然の輪郭にほかならない。そして、この線は明らかに 不動のものとして定着されているが、にもかかわらず、ヴォリュームを暗示し、あるいは暗喩的な観念連合を喚び起す記号として 生きはじめる。すなわち、精神活動の自己限定として紙の上に分離され、定着された線が、それを見る他者の精神活動の中で ふたたび、線以上の何ものかとして生きはじめる。 》 118頁

 描線の魅力が見事に語られている。そう、線なのだ。一本の線がモノを言う。安藤信哉の線の何としなやかで強靭なことか。 デザイナー内野まゆみさんの描くテディ・ベアの簡素な描線が魅せるヴォリューム感。ワカル人にはワカル。

 ネットの拾いもの。

《 人工知能が麻雀に取り組まないのはなぜだろう。実用性あるのに。 》

《 猛反発マットレス 》