「リズムの両義性」

 朝雨が止んだので昼前、三石神社めがね橋から時の鐘橋までの五十メートルほどの石垣のヒメツルシバを駆除。 草の陰にはサワガニがぞろぞろ。手の届かないところは、銀座ヘルス(ソープランド)と倉庫の三十センチもない隙間を 蟹歩きでなんとか抜けて、石垣の上のものを抜く。土のう袋一袋弱。やれやれ。シャワーを浴びる。午後再び雨。

 山崎正和『社交する人間』中央公論新社は、豊かな内容で一章一章じっくり反芻するので(いいいい訳だ)、なかなか 進まない。名著の予感。「第九章 社交と文化、文明」も、内容豊富。リズムが話題の一つにあがっている。

《 いいかえれば、人間は運動の流動性そのものを造ることはできないのであって、ただ与えられた流れを堰きとめる ことでそれを加速しうるだけなのである。その意味で、人間がリズミカルな運動を営むとはとりもなおさず、受動的な 姿勢と能動的な姿勢を同時にとることであり、流れに身を任せながら乗りこなすこと、意識以前と意識化を同時に 体験することにほかならず、その意味でも両義的、逆説的な営みだというべきだろう。
  このことはリズムを別の面から内省してもわかることであって、リズムの感触にはまぎれもなく両義的な効果が 含まれている。誰もが感じるように、それは一面で人間を覚醒させ、正確な行動に導くものでありながら、一転すると そのまま陶酔と酩酊に誘うものだからである。(中略)そしてその高揚感そのものは一種の陶酔であり、およそ 知的認識とは正反対の受動状態であることはいうまでもなかろう。陶酔はいっさいの文節性を欠いた持続であるが、 まさにそれが精密このうえない音の分節化を生みだすのである。 》 222-223頁

 脱帽。私のアタマではこのような優れて構造的な分析はとても無理。

《 それは身体のなかに蓄積された緊張状態の記憶であり、弧を描きながら文節された行動の軌跡の記憶である。 》  223頁

《 「くせ」を忘れる人間はあまりいないが、リズムを忘れる人間はいたるところに見いだされる。さらに「くせ」は 価値的な評価と無縁であるが、形成されたリズムはつねに質的な価値、すなわち正確さや美しさを問われる。リズムには ほとんど知的な作業に近い正確さと、あたかも自然の流れに似た滑らかさが求められるのがつねである。「くせ」の保持に 人間は格別の努力を求められないが、リズムを身につけておくには懸命な練習を重ねなければならないのである。 》  224頁

 安藤信哉の水彩画からは闊達で潔い筆触のリズムが伝わり、見る人に瑞々しい感興を与える。
 http://web.thn.jp/kbi/ando.htm

 J・G・バラードが2009年に亡くなっていたとは。21冊持っている。半数以上は読んでいるが、随分前に読んだので 細かいことは忘れた。が、どれも鮮烈な印象。後はいつ読めるか。

 ネットの見聞。

《 入力が「ほんとうに新しいもの」であれば、それを記述するできあいの言語はありません。でも、中枢は現場が 「できあいの言語」に落としてきたものしか受信しない。だから現場に「新しい記号を創り、文法的破格を認める」 権限を保証しない限り、「新しいイベント」を組織的に対処することはできません。 》 内田樹
 https://twitter.com/levinassien/status/747745834112946176

 時代から突出した芸術作品が一般にはすぐには受け入れられないのは、こういう理由かも。

《 富裕層の「税金逃れ」を封じれば消費増税は不要になる 》 ダイアモンド・オンライン
 http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160629-00093858-diamond-bus_all&p=1

 ネットの拾いもの。

《 親子で大統領をやったあとは、夫婦で大統領とか、
  アメリカも人材がいないねえw
  日本の世襲を馬鹿にできないクソっぷり。 》

《 ゲームセンターあらしと言えば。 》 向井透史
 https://twitter.com/wamezo/status/747777219389333504