風雲・田島志一 (閑人亭日録)


  田島志一の審美眼に興味を覚えるが、彼の人生も興味をそそる。ネット情報から。

《 「日本仏教真美協会」は『真美大観』を刊行するためだけに結成された団体であったため、この時点で解散し、光村のもとで新たに「大日本真美会」が創立されました。

 理事長には光村が就任し、理事には雑誌『禅宗』の編集から退いた田嶋志一が就任しています。神戸下山手通りに事務所を構え、その滑り出しは順調でした。

 しかし日露の開戦が近付くと、会員である予約購読者は次第に減少していきました。協議の結果、協会の事業を改善拡張し仏教美術以外の画集も刊行することが 計画され、明治36年に光村が新たに創設したのが「審美書院」であります。ここからはいわゆる「真善美」の「真美」ではなく、「審美眼」の「審美」の字が用いられるように なりました。おそらく光村は仏教美術以外の画集も扱っていくに当り、「真美」の字に残る宗教色、思想色を排除していこうとの配慮でありました。

 以後の「審美書院」は、画家別に作品を編集して『光琳派画集』(明治36~39年)や『元信画集』(明治36~38年)、『若冲名画集』(明治37年)などを次々に 刊行し、これによって美術出版社の名声を得るようになりました。また、海外へも販路を拡大することが計画され、明治30年代以降の審美書院の刊行物には、 田嶋志一の訳による英文版も作られていました。/審美書院発行の美術書 》 山口須美男『明治期の写真・印刷と出版事情』
  http://www.artbooks.jp/Korotaipu.htm

《  田島志一  生年月日 明治元年四月十四日 (1868)
  夙に美術に志し同三十二年眞美協會を起し眞美大觀を刊行し江湖の名聲を博す同三十七八年之を携へて歐米各國に航し我國の美術を紹介せり後審美書院を創設し 各種の名畫集を刊行す幾もなく之を株式組織となし盡す所ありしが同四十五年退社す大正元年日本紙器製造所を設立し外國品の輸入防止に努め其盛んなるに及て 株式組織に變更す 》 人事興信録 第4版 [大正4(1915)年1月]
  http://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/who/docs/who4-5333

《 手探りで始まった日本の紙業に命を吹き込んだのが、日本の近代紙器業のパイオニア田島志一である。田島は、大正13年(1924)に52歳で不遇のうちに亡くなったが、 その波乱に富んだ生涯は日本紙業発展の歴史の中に、本流といえる足跡を刻んでいる。田島を紙業発展の主役に押し上げるきっかけとなったのが、 明治も終わりに近い43年(1910)、ロンドンで開催された英博覧会である。田島は、真美大観や古美術品をたずさえ、日本の美術印刷や木版コロタイプの紹介をかねて 渡欧した。彼はそこで、紙箱以外に、紙皿・紙盆・紙コップ・煙草函・装身具や貴金属容器・商品宣伝用スタンドなど、板紙がさまざまな用途に加工・使用されている 実態を見、今後、日本紙業界も、紙製品加工業が発展するだろうという確信を得た。帰途、彼は米国滞在中、トムソン型打抜機などの機械や器具類の輸入契約をし、 帰国した。そして明治45年1月、日本銀行に近い日本橋本町2番地の裏通りで個人経営の「日本紙器製造所」を起こした。/ 紙業発展の象徴、日本紙器製造所 》  紙器の歴史
  https://www.tokyo-shiki.co.jp/history/index.html

《 しかし、そんな絶頂期の田島を待っていたのが、大正9年(1920)3月15日の株式市場の大崩落、ガラ(株や商品相場などガラガラと暴落)である。 7年11月に第一次大戦が休戦、翌8年6月ベルサイユ講和条約調印、それまでの戦争大好況の終焉である。/ 紙業発展の象徴、日本紙器製造所 》 紙器の歴史

《 田島は技術開発には天賦の才を発揮したが、経理は人まかせ、経営のバランス感覚には欠ける向きがあり、株価操作のための粉飾決算を知りながら、 黙認していた星野錫社長の責任も問われ、大正10年2月1日、星の社長を始め、鳩山一郎取締役を除く、田島専務以下全役員は引責辞任し、 万事を鳩山取締役に託したのである。/ 紙業発展の象徴、日本紙器製造所 》 紙器の歴史

 ネット情報を鵜呑みにはできない。「紙業発展の象徴、日本紙器製造所」の元記事では”田島は、大正3年(1924)に52歳で不遇のうちに亡くなった”とあるのを ”大正13年(1924)”に直した。が、これも違うようだ。

《 因にこれは余談に渉るが、田島氏はその後審美書院を去り日本紙器会社を設立して一時実業界立志傳中の人と唱はれたが不幸にしてその晩年は余り掉はず、 大正九年に易簀されたさうである。 》 山崎純夫【田島志一と審美書院】
  http://web.kyoto-inet.or.jp/people/artbooks/kusa13.html

 大正9(1920)年が正しいようだが、はて。

 東京新聞きょうの運勢。

《 本来は単純であり、平凡である。人間が勝手に複雑にして非凡にして苦しむ。 》

 名画も本来は単純で平凡。しかし名画は深い。そのあまりの深さに人は惹かれ、魅了される。審美書院の画集の多色摺り木版画は、至近に直接見るのでその色摺りの 深く複雑な諧調にまず目が釘付けになる。原画の魅力もさることながら、超絶技巧の木版画ならではの深い感銘を覚える。絵はある意味単純で平凡である。けれども、 彫師摺師の単純、平凡な意気込みによってもたらされた言い知れぬ深さ、深み、深まりに息を呑む。よって、原画と複製木版画を並置して鑑賞したい。大きな原画と 小さな複製木版画との、注視する視野の差によって起こるだろう印象の違いを検証してみたい。ミニチュアの魅力につながる問題。
 先年試みた、味戸ケイコさんの縦20センチ足らずの原画を縦150センチほどに拡大コピーしたこととは逆のこと。その時は、そんなに大きく拡大したのに絵の魅力は 殆ど損なわれなかった。さらに訴求力が増した。今思う。元の絵が大きくて縮小したと仮定したら? うーん、どうなんだろう。味戸さんの絵の場合密度が増したことは なかったが。

 ネット、うろうろ。

《 芸術は、大多数の人の共感を得るものでなければならない。その通りだが新しい作品が、必ずしもそうである必要はない。『モナリザ』だって、 いまでこそ年間三百万人が見に行くが(ゴッホ若冲そうだ)、初めはそうではなかった。芸術の受容には時間がかかる。大衆にウケる新作が大切、とか意味ない言説。  》 布施英利(ふせ ひでと)
  https://twitter.com/fusehideto/status/1179518700426149889

《  この写真から感じ得た感情をどう表現すればいいか未だに分からない
  可哀想なのか、奇妙なのか、恐怖なのか
  こういう事はなんて言うんですか? 》 ギギギガガガ
  https://twitter.com/toikoh9114/status/1179064578178605058

《 僕が一年滞在した国は、とりあえず文化省があって、日本の10倍の芸術文化予算があった。日本には二つしかない国立劇場、国立演劇センターが 50箇所以上あるから極端な首都集中も起こっていない。それだけの文化予算が全国に回ると、地方が文化的に死なないのがよくわかった。 》 夏井孝裕
  https://twitter.com/futodoki/status/1177225980395438080

《 「 表現の不自由展」を止めたがる政治家たち /武田砂鉄  》 cakes
  https://cakes.mu/posts/27385

《  政権交代できたら、
  「自民党のこれまでのプロパガンダ展」っていうのをやってほしい。
  「原発はクリーンなエネルギー」とか
  「消費税は社会保障の財源」とか
  「TPPに反対」とか
  「サヨクは危険」とか
  「郵政民営化」とか
  「マイナンバー」とか
  「中国・韓国・北朝鮮は悪い」とか、
  忘れないように残す 》 ヤノトシオ(人間になりたい)
  https://twitter.com/yanotoshio2/status/1179023897137569792

《 「金の延べ棒や小判…」リアル越後屋を令和の今見れるとは…。

  因みに関電は元々のお金の出し手でお殿様、助役は業者代表で越後屋なのですが、このお話には両者を橋渡しする「悪代官」がまだ出てきていません。 ほぼ間違いなく悪代官がいたと思われますが…。 》 米山 隆一
  https://twitter.com/RyuichiYoneyama/status/1179181309605711872

《  妹「もし私がグレたらねーねはどうする?」
  私「私もグレる。まず金髪にして毎晩近所をバイクで走り回る。コール音でアンパンマンのマーチ鳴らす」
  父「俺は緑の髪にしてデーモン閣下みたいな化粧する」
  母「私はピンクの髪にしてパンツギリギリミニスカのボディコン着る」
  妹「絶対グレない」  》 くろたま●単行本①9/27発売
  https://twitter.com/krtmgpl/status/1178873577052893184