『小原古邨への招待』(閑人亭日録)

 昨日午後、静岡市から友だちを訪ねて来られた年配の女性を、彼女と二人で源兵衛川などを案内。その御婦人は、NHKeテレ『日曜美術館』で「小原古邨」特集を見て、茅ヶ崎市美術館まで見に行き、図録も買った、と。ほう。私は貸し出した資料のお礼の図録を受け取りに行ったら「売り切れてしまいました」。
 https://www.chigasaki-museum.jp/news/2972/
 K美術館では1999年6月4日(日)~7月4日に「西洋で愛された幻の絵師 小原古邨」展を催した。そのときの案内文。まだパソコンを所持してはおらず、ネットにあげていなかった。

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『小原古邨への招待』    K美術館館長 越沼正


 19世紀、西洋で高い評価を受けた浮世絵は、明治に入って盛んに輸出されるようになり、作品が払底し、複製版画でも、という状況になりました。その滋養に応えるため、明治期美術界に多大な影響を与えたアーネスト・フェノロサは、小原古邨を見いだし指導をして、輸出用木版画の原画である花鳥画を多数制作させました。今世紀諸島(明治40年頃)、古邨30歳頃のことでした。西洋の愛好家は、古邨の格調高い絵は言うに及ばず、その精緻な描写を忠実に再現し、さらには原画の特徴を一層際立たせた、卓越した木版画技術に感嘆しました。その木版画は、生の深いダイナミズムを秘めた動態的な構図の滑稽堂版、動の中に静を、静の中に動をひそやかに交差させている大黒屋版と、その趣きは少々異なりますが、絵師、彫師、そして摺師の三者の技が存分に発揮され、肉筆画と見紛う極めて高度な美を醸成しています。
 小原古邨(本名・小原又雄)は1877(明治10)年金沢に生まれ、大正に入ってからは祥邨と改名しました。昭和の初めからは。渡辺版画舗の依頼によって版下を描き、出版されていますが、その版画には古邨時代に見られる、卓抜した花鳥木版画の輝きはありません。
 古邨の作品は、その大半が輸出されたため、海外の美術館に多数収蔵され、コレクターの間でも人気が高く、海外のオークションに登場する、数少ない近代日本人画家の一人です。近年では、アメリカ・シカゴ美術館、ロシア・モスクワ東洋美術館で古邨展が催されています。ぇれども。日本の美術館で収蔵しているところはわずかであり、東京国立近代美術館さえ「祥邨」の作品だけが、数十点収蔵されているのみです。また、祥邨の名前も「大正時代に入ってから『祥邨』と名乗る前の名」としか書物には記されず、古邨はほとんど無視されてきました。その古邨の作品が日本でまとめて展覧されたのは、没後50年の1995年に発見された資料(下描き、原画など)を基にして、平木浮世絵美術館が昨年の秋に催したものが最初でした。ここに、優れた作家を発掘、再評価する時代の要請を感じます。
 皆様のご高覧をお願い申し上げます。   1999年5月

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 小原古邨
 http://web.thn.jp/kbi/koson.htm

 ネット、うろうろ。

《 出先のため楢喜八先生の挿絵を引用できなくて残念なんだけど、泡坂妻夫先生の「掌上の黄金仮面」。それまでいまいち印象のつかめなかった亜愛一郎の魅力にドカン! と気づかされました。ミステリの演出って何かも含めて。
   #高い建物で事件が起きるミステリー 》 芦辺 拓
https://twitter.com/ashibetaku/status/1641647743155458050

《 「絶対に制限されてはならない人権」というが、「緊急事態条項」そのものが、強い人権制限である。これを作ったら、そもそもほとんどない日本の人権は、完全に損なわれる。 》 ありーちぇ😷
https://twitter.com/ALC_V/status/1641328833659011073

《 鉄筋がむき出しに…核燃料の熱でコンクリが溶けたか 圧力容器真下の土台が損傷 福島第一原発1号機 》 東京新聞
https://www.tokyo-np.co.jp/article/241172

《 F1 一号機。原子炉格納容器下のコンクリートでできていた円柱形の土台=ペデスタル。メルトダウンでコンクリートが剥がれ落ちて何も無い。
  残っているものはこの鉄筋だけ。もうじき崩れる

  F1 の燃料棒の取り出しは、2028年度に始まる(それもできそうに無い)予定だと言う。
  https://youtube.com/watch?v=Bl-BCrGXeCc 》 エリック C.(原発汚染水海洋放出反対)
https://twitter.com/x__ok/status/1641300504872624129