『青猫』(閑人亭日録)

 萩原朔太郎第二詩集『青猫』大正十二年一月刊行、「序」を読んだ。『月に吠える』同様、親近感を覚える。

《 日頃はあてもなく異性を恋して春の野末を馳(は)せめぐり、ひとり樹木の幹に抱きついて「恋を恋する人」の愁(うれゐ)をうたつた。 》

《 感覚的憂鬱性! それもまた私の遠い気質に属してゐる。 》

 あれから半世紀以上が経った。遠い昔のことだが、生々しく思い出される。二十代、年上の知人の奥さんは、「ベトナム戦争の帰還兵みたいだねえ」と感想をもらした。暗い陰気な若造だった。それを恥じることもなかった。なんという身近な詩人よ。

《 詩はいつも時流の先導に立つて、来(きた)るべき世紀の感情を最も鋭敏に蝕知するものである。されば詩集の真の評価は、すくなくとも出版後五年、十年を経て決せられるべきである。五年、十年の後、はじめて一般の俗衆は、詩の今現に居る位地に追ひつくであらう。即(すなは)ち詩は、発表することのいよいよ早くして、理解されることのいよいよ遅きを普通とする。かの流行の思潮を追つて、一時の浅薄なる好尚に適合する如きは、我等詩人の卑しみて能(あた)はないことである。 》

 昨今の現代詩については疎いのでなんとも言えないが、美術に関しては、五年、十年ではきかないだろう。ここでは具体例は(書きたいが)記さない。

 十五夜。この数日、夜空を仰いでは月の満ちるのを観測していた。屋上で夕食をゆっくりとりながら十五夜を観賞。雲間からちょこっとのぞく妖艶な満月。