昨日紹介した味戸ケイコさんからのお手紙の、絵についてのお考えに、あらためて深く同感。絵だけでなく、美術作品全般に通じることだと思う。作品を「見つめ心にとどめてくださる方たちによって完成する」は、至言だと思う。買い込んで死蔵するのではなく、作品を見つめること。ここから作品の真価が現れる。発表当時、凄い凄いと評判になった作品の多くはコレクターに買われたりして行方知らずに。また美術館に収蔵されて、お蔵入りになる事例も耳にする。1980年代~バブルの頃に人気だった美術作品というか美術商品は、今どこに。倉庫の奥に放置されたまま?。でも、その中に気づかれない魅力をもつ作品もあるはずだ。それが面白い。例えば伊藤若冲。審美書院からは『伊藤若冲作品集』が出版されている(未確認)し、夏目漱石の小説『草枕』だったか、伊藤若冲の掛け軸にふれている。それで思うのが、『日本美術全集 第19巻 戦後~一九九五』小学館二〇一五年八月三〇日発行に収録された味戸ケイコさんの絵「150 雑誌『終末から』表紙絵」の、椹木野衣氏の解説の結び。
《 もとが版下として描かれたゆえ、用を終えると所在が不明になりがちなこのころの味戸の原画は、幸い静岡県在住の所蔵家の目に留まり、その多くが大切に保存され、未来に発見されるまでの決して短くはない時の眠りについている。 》
「決して短くはない時の眠り」は、どれくらいだろう。今世紀初頭だったか、味戸ケイコさんの企画展を、味戸さんのファンが函館美術館に提案したが、そっけなく却下された。仕方なくギャラリーを借りて個展を催した、と聞く。それから二十年ほど。故郷でやっと企画展。私の寄贈した四点も展示されているだろうな。小原古邨も同様。1945年に東京で亡くなり、生まれ育った金沢でもずっと忘れられていた。時代の好みと流行、時代の美意識の変化によって作品の(商品)価値は大きく変動する。商魂たくましい美術業者の世界は、部外者からはうかがい知れない。美術業界の宣伝に振り回されず、凡百の美術評論家の口車に乗せられず、自分の好みと自らの審美眼を信じる。美術界から評価されなくたってかまわない。私が評価する。時代は変わる。発見され、評価される時がいずれ来る。やがて来る