K美術館を開いた理由はまず、味戸ケイコさんと北一明を顕彰し、広く知らしめること。そして後世へ伝える(遺す)べきと私が勝手に判断した美術品を展示することだった。 その目論見は、味戸ケイコさんは、椹木野衣 責任編集『日本美術全集 第19巻 拡張する戦後美術 戦後─一九九五』小学館 二〇一五年八月三十日 初版第一刷発行 に第150番「雑誌『終末から』表紙絵」が収録、掲載された。椹木野衣の解説結び。
《 もとが版下として描かれたゆえ、用を終えると所在が不明になりがちなこのころの味戸の原画は。幸い静岡県の所蔵家の目に留まり、その多くが大切に保存され、未来に発見されるまでの、 決して短くはない時の眠りについている。 》 273頁
北一明は、一昨日リンクを貼ったが、没後十一年、北一明記念館が故郷飯田市の旧宅に開かれた。
こういう例は稀だろう、と思う。K美術館で回顧展をした、生前お付き合いをしていた某作家の絵は、生前一点も売れなかった。遺族からは絵をぜんぶ差し上げますと言われ、美術運送の車を手配して倉庫に収納していたが、十年あまりして、画家の娘(もう、おばあさん)から「息子と共同で管理したい」と突然の申し出。だんだん知られてきて欲が出たのだろう。「全部お返しします」と返答したら、「あの絵はどこどこの人が欲しいからそちらへ送って」「金がないから運搬費はそちらで出して」。いささかあきれ、腹が立ち、遺族のもとへ全部送り返した。輸送費は全額私持ち。私が絵の背後の背板を補強した畳二畳大の絵など、行き場所があるだろうか。
地元の某現役作家の企画展をしたとき、展示した絵画は、置き場所がない、というのでK美術館の倉庫に収めた。画家の死後、回顧展を企画。家に行くと、外壁の横の地面に板を敷いた上に大きな絵を立てかけ、上にブルーシートをかけてあった。参ったね。全点を軽四輪に載せ、K美術館へ運び込んだ。一年がかりで傷んだ箇所(裏の板など)を補修した。そして遺作展を開催。その後、地元の公立美術館で同じ作品で回顧展。好評。気をよくした息子が、全部引き取りにきた。全部渡した。お礼は菓子箱一つ。それはかまわないが、へえ~、絵が売れると思っているんだ。この二人の絵のその後は知らない。前者の絵は、長野県の公立美術館が大きくない絵の数点を収蔵したようだ。そのいきさつに触れられているが、遺族の話を真に受けて、私が悪者になっている。
そういえば、北一明記念館関係者からは何の問い合わせもない。北一明とは喧嘩別れをしたからだろう。北が「百万円で買ってくれ」と送り付けてきた新作(?)茶碗はあまりにつまらなく、送り返した。数日後、助手をしていた女性が電話で怒鳴り込んできた。その茶碗は、未だに本やネットなどで見たことがない。以上、備忘録。