『縄文論』再読(閑人亭日録)


 床に積み上がった本の中に安藤礼二『縄文論』を見い出し、手にする。作品社二〇二二年一一月一〇日第一刷発行。後半には付箋がぎっしり。読んだ記憶はかすかにあるが、内容はすっかり忘れている。読みなさい~と誘われているようだ。「序」から攻めて来るわ。

《 原型的な人間たちが切り拓いた根源的な世界──そのような意味において「縄文」を捉え直さなければならない。それはユートピアではない。 》「はじまりの場所へ─『縄文論』序」11頁

《 言葉の真の意味で、「残酷」な世界がここに生起している。原初の芸術は「残酷」とともにある。『縄文論』は、これまでの牧歌的な「縄文」に否を突きつける。そして「縄文」を時間と空間の限定から解放する。原型的な人間たちが営む根源的な世界、すなわち「芸術」は現在においても生き続けている。そうして根源の世界と結びついた「芸術」の在り方を明らかにする。 》「はじまりの場所へ─『縄文論』序」11頁

《 「まれびと」は動物、植物、鉱物をその異形の身体のうちで一つに融け合わせる。大地そのものからその異形の身体を立ち上がらせる。「まれびと」は芸術作品そのものであり、その芸術作品を創出するアーティストその人でもある。 》「はじまりの場所へ─『縄文論』序」13頁