『縄文論』再読・二(閑人亭日録)

 「草原論」を読んだ。なんとも重厚な論述だ。気になる箇所を抜き書き。

《 古典時代の秩序が解体されるなかで「近代」が形づくられていくのだ。(引用者・略)私の意図としては、「近代」はもはやヨーロッパだけにとどまらず、この極東の列島をも巻き込んだ「学」の再編にして「表現」の再編をともなっていたことを明らかにする点にある。 》17頁

《 それが私の批評の原理であり、またその目的である。 》17頁

《 外的な差異性にもとづいた静的かつ固定的な分類ではなく、内的な同一性(「生命」)からの分化にもとづいた動的かつ流動的な分類。 》22頁

《 つまりは、より可塑性に満ちたものであることが分かっている。過去の記憶のすべてをそのなかに秘めた前成的なものではなく、未来の未知なる可能性に適応することができる後成的なものだった。 》28頁

《 この「草原論」では、その今西錦司から、今西の「師」である西田幾多郎へとさかのぼり、まずは生物学と哲学の間にある垣根を無化してしまうことを試みる。 》32頁

《 今西は、生命進化の主体を「個」ではなく、「種」におく。「種」は、未知なる未来へ向けての変化の主体であるとともに、膨大な過去によって形成された現在の体制、既知の体制に固執するものである。「種」は閉じられているとともに開かれている。さらに「種」は、そのまま一つの「社会」を形づくっている。 》34頁

《 今西は、つねに生成発展しえいく生物の側に立っていた。生物は自らを作る、。そうした観点から、生物と環境を分離して考えることはできない。生物と環境はもともと同質のものなのである。生物は環境に働きかけ、環境は生物に働きかける。 》42頁

《 生命はつねに変化しながら、「一即多多即一」という可能性を、その秩序を、全体として維持し続けている。生命は、変化の方向性をもち、全体性をもっている。そういった意味で、生命は、主体性とともに完結性、完全性を備えている(より正確には、流動的な完結性にして流動的な完全性とでも称すべきだろうが……)。 》46頁

《 偶然と必然が複雑に絡み合うなかではじめて創造的な進化が生起する。それは生物の歴史のみならず、学問の歴史にも、そっくりそのままあてはまる。 》52頁

 52頁の引用の前半に北一明の焼きもの=耀変の出現を想起。また、46頁なんか「美術の歴史」のように感じる。

 原因不明の腰痛で近所の病院へ。レントゲン検査。医師の診断「老齢による痛みです」。はあ~。ぐっと気が楽になる。猛暑もどうってことないわ。帰宅。