『縄文論』再読・三(閑人亭日録)


 「場所論」前半を読んだ。

《 そうした、通常の言語、通常の感覚では到達不可能な絶対の地点こそが、文学の「象徴主義」が目指すべきゴールであった。
  西田幾多郎小林秀雄は、「象徴主義」において交錯していた。小林がランボーに由来する「言葉の錬金術」を近代日本の文学として実現しようとしていたとするなら、同じく西田もまた、「思考の錬金術」を近代日本の哲学として実現しようとしていたのである。 》82頁

《 「象徴」は、内の世界と外の世界を、有限の世界と無限の世界を、一つにむすび合わせる。つまりは「合一」させる。その「合一」の諸相を、哲学的に明らかにしようとしたものが『善の研究』であった。つまり、『善の研究』は、文学における「象徴主義」を、哲学として思考したものであった。「言葉の錬金術」を「思考の錬金術」として読み替えたものであった。 》85頁

《 西田のいう仏教は、その根本に、「真如」という真の実在にして絶対の「一」なるものを据える。森羅万象あいとあらゆるものは真如という「一」なるものから産出されてくる。しかも、その「一」なるものは、個人の「心」を超えた、宇宙の絶対精神ともいうべき「心」(「一心」)そのもののことを指す。そういった意味で、西田の哲学は「唯心論的一元論」、すなわち「意識」の根底に真なる実在を探っていく、意識の形而上学であった。 》86頁

《 現象即実在にして相対即絶対、一即多にして多即一。その絶対的に矛盾する事態を成り立たせる、アートマンブラフマンである、「心」はそのまま
「真如」であるという原理、それが『善の研究』全体を貫く西田の哲学のもつ基本構造にして、西田の盟友・鈴木大拙によって近代的に解釈し直された仏教思想のもつ基本構造でもあった。 》90頁

《 『善の研究』からはじまり、『自覚に於ける直観と反省』を経て、『働くものから見るものへ』の後編に収められた「場所」にいたる西田幾多郎の歩みは、ボードレールランボーマラルメの歩みと完全に並行している。(引用者・略)それは、哲学における象徴主義の完成であるとともに、哲学の消滅ですらあった。 》98頁

《 生命は、外的環境と内的環境の交点に、その身体を形成するとともに精神をも形成する。引き合い反発する力、外に展開しようとする力と内に縮約しようとする力の拮抗が、原初の生命を形づくる。 》106頁

 三島夏祭り初日。猛暑の中、山車上の子どもシャギリが賑やか。人気があるようだ。大通りの舞台(山車)上で演じるシャギリ(お囃子)は、憧れなんだろう。親にとっても晴れ舞台。祭りが盛り上がっている午後8時20分、ちょっとした揺れを感じる。神奈川県西部で震度4の地震。祭りの人は誰も気づかない。