養老孟司『身体の文学史』新潮社1997年初版は、目から鱗が落ちる印象。再読してしまった(よくわからなかったから。頭悪いなあ)。
《 身体の消失自体は、一般的な文化現象ではない。むしろ西欧的な文化と、鋭く対立する点であろう。自然の排除、人工空間の創出は、それに対して、一般的といってよい。それらは「脳化」の好例である。 》19頁
《 日本の文学は、心理主義を採用することによって、心を主とし、身体を従とした。しかし、それは文学に限定されない。 》49頁
《 しかし、中世的世界では、人はまず身体である。戦国武将は、常に身体的イメージを伴って描かれる。 》54頁
《 中世的身体を失うことは、江戸という近世の特質だった。 》55頁
《 身体がないところに、個の普遍性はない。 》59頁
《 個を保証するもの、それこそが身体であり、「ことばにならない」、その身体の普遍性を保証するもの、それが「型」あるいは「形」だったのである。 》60頁
《 われわれがあらためて創り出さねばならない表現は、おそらく身体の表現である。 》192頁
《 文化的表現は、おそらく二つの軸に支えられている。一つは言葉であり、もう一つは身体である。 》193頁
《 部落の必要は、国法に先行する。きだ・みのるは『にっぽん部落』にそう書く。 》127頁
ビックリ。『にっぽん部落』岩波新書1967年初版を本棚から出す。高校生の時読んで以来、記憶に深く刻まれている。それにしても、こう抜き書きしたら本質的なことが抜け落ちている気がしてならない。また、ポルノグラフィー、人肉食についてじつに深い洞察がなされていて、これまた目から鱗だけれども、整理がつかず安易に書けない。養老孟司自身、ちゃんと整理できてはいないと認めるだろう。時をおいて再び読むことになろう。
《 仮説が発見を導くのであって、解釈が導くのではない。 》17頁
ネットの見聞。
《 ベニスビエンナーレ日本館の予算だが、アートのオリンピック等と言った発想は関係機関には無い。何処のバビリオンも国を上げて自国の現代文化を喧伝し文化交流を推進するが、残念ながら日本館にはこうした予算は無いに等しい。キュレーターやギャラリーがパーティや制作資金集めに奔走。文化二流 !! 》
《 国際展においても、日本国内でのみ通用する力関係が左右しているという面があると思う。日本の国も、企業も大学もすべて恐ろしく内向きの評価がモノを言う社会になっている。 》