須賀敦子『塩一トンの読書』河出書房新社2003年初版、前半を読んだ。引き締まった、勁い文体。昨日の耕治人同様、私には書けない文章だ。目次には知らない本、 持っていない本がずらりと並ぶ。読んだ本は、著者が訳したアントニオ・タブッキ『インド夜想曲』くらいか。読みたくなる、買いたくなる本、本、本。参ったワ。
《 何をいまさら、あくせくと動くことがあるだろうか。
甘美な無為。私ひとりだけの、心浮き立つまつり。 》 「翠さんの本」 33頁
矢島翠『ヴェネツィア暮らし』平凡社の解説だが、引用は矢島翠の文。いやあ、甘美な無為。心を揺さぶるこの言葉。なんと豪奢な。
《 読みたい本を読む時間がなかなか確保できなくて、気がつくと、〈読みたかった〉のに、〈まだ読んでない〉本が、食卓や枕もとにこんもりと山をなしている。 》 「鋭い洞察をもつキニヤールの作品」 45頁
食卓にも枕もとにも本はないが、部屋の壁際は蔦の葉のように本が増殖している。
《 六○年代、とくに六○年代後半に、知識層とでもいうのか、いま考えると、おそいハシカを患ったていのわれわれ中年の仲間が、バリケードの若者たちといっしょに なって夢見た、あの共同体への憧れはいったい、どういうことだったのだろうか。それは、熱病のように、ミラノにいた私たちの中を、そしておそらくは、世界の多くの 人々の心の中を駆け抜けていった。あのころ、伝統的な家族というものは、私たちを縛りつけるだけの、ただ生物的で強制的なだけの体制として、ひたすら退けられ、 われわれは自ら選んだ家族としての、友人の、友人だけの共同体を選択しようとして、やっきになっていた。 》 「小説のなかの家族」 87-88頁
学生だった七○年前後、周囲にはなぜか共同体へ憧れる人たちがいた。そして○○会といった共同体へ参加していった。何が彼ら彼女らを惹きつけ、駆り立てたのか。 この社会制度、家族制度の桎梏から抜け出したいとは、私も切に願っていたが、共同体はどこか胡散臭く感じられて近づかなかった。学生運動ののスローガン 「連帯を求めて孤立を恐れず」の気持ちだった。大学紛争が終息し、孤立を恐れて連帯感を求めて旅に出た。旅で知り合った人たちが、三月ニ九日に三島へやってきた。 六月末、みんなで当時を思うセンチメンタル・ジャーニー、十和田湖〜八幡平の再訪を誘われたけど、辞退した。
今晩は知人宅で持ち込みの飲み会。昼、リクエストの白ワインを冷やし、ほうれん草を茹で、南瓜を煮る。これで準備万端。バスに乗ってゴー。帰りはタクシーだな。 帰宅すれば酔っ払っているので、早めの更新。
ネット、いろいろ。
《 残念ながら本書は図書館の片隅で埃をかぶる機会さえ失ってしまった。埃をかぶっても図書館に架蔵されつづけるということは大きな意味を持っているはずなのだが ……。 》 「亜剌比亜綺譚ヴァテック」daily-sumus2
https://sumus2013.exblog.jp/29821549/
牧神社版『ヴァテック』1974年普及版初版は、架蔵。その右隣は齋藤磯雄『ピモダン館』小沢書店1984年初版、『山尾悠子作品集成』国書刊行会2000年初版、 『ヴァーノン・リー幻想小説集 教皇ヒュアキントス』国書刊行会2015年初版……左に目を遣ると『坂東壮一 蔵書票集』レイミアプレス2014年普及本。いい並びだ。 蔵書票集を開くと「59 出帆」の図版。以前、銅版画家の林由紀子さんから彼女の額装した銅版画との交換を申し込まれ、交換。それはさておき。引用文は美術品、 美術館にも言える。
《 こないだ、ドローンが新たなナスカの地上絵を発見した(本物かどうかは知らない)というニュースで、人間のように近過ぎても、ヘリコプターのように 遠過ぎても、見つけられなかったというのが面白いかった。出来事に対して、密着し過ぎても俯瞰し過ぎても見落とす何かがある。 》 大野左紀子
https://twitter.com/anatatachi_ohno/status/1002021508351324160
《 #クロ現プラス
竹中「日本全体が沈んでいく」
沈めたのお前やんか。 》 Tad
https://twitter.com/CybershotTad/status/1001817477985206272