『さらば気まぐれ美術館』再読・五(閑人亭日録)

 洲之内徹『さらば気まぐれ美術館』新潮社 昭和六十三年三月二十日発行 昭和六十三年十一月二十日四刷の再読を進める。
 「暮れの雪」。

《 どの馬も、前脚と後脚の関節が同じ方へ曲っている。しかし、あり得ないそのことで、絵の中のこの馬たちは走っているのだ。もし、この馬たちが解剖学的に観察された正確なデッサンを持っていたら、この運動感は生まれなかったろう。絵に描かれる物の運動感は、運動する物体のリアリティーを、むしろ抑制する方向に働くものなのだ。 》 253頁

 「雪の降り方」。

《 展覧会を見に行けば、大きな声を出した者が勝ちというような絵がずらりと並んでいる。この居心地の悪さ。どちらを向いても私は生きた心地がしない。どこにもこの身を托することのできるリアリティーがない。 》 258頁

《 そして、人間が率直であることのできた時代というものがあったのだと、つくづく思った。率直ということは美しい。いまの世の中にないのはそれなのだ。 》 259頁

 洲之内徹『さらば気まぐれ美術館』新潮社、再読終了。以前読んだかなあ、とやや疑問だったが、最後の「一之江・申孝圓 藤牧義夫」を読んで再読と確信。面白かった。自分の人生と重ねて読んだ。

 降ったり止んだり。浮かんだ短歌。

   あなたからきたるはがきのかきだしの「雨ですね」
     さう、けふもさみだれ        松平修文

 ネット、うろうろ。

《 人間は自然の勢いに任せて生きることができない。自然な衝動に意識的な制御をかける必要がある。他の動物でもそういう面はあるが、人間は特にそれが非常に大きい。そこで、流れのままなのか制御するのかのバランスが問題になり、その「流れと制御のバランスの造形性」が自立したのが芸術だろうか。 》 千葉雅也 Masaya Chiba
https://twitter.com/masayachiba/status/1657547855677239296

《 自然の模倣をするというのは、なんかスーパーリアルに写真みたいな絵を描くとかそういうことじゃなくて、どこから始まってどこへ行くのかわからないプロセス性をうつす(自然のようになる、その勢いを自分の身体に移入する)こと。 》 千葉雅也 Masaya Chiba
https://twitter.com/masayachiba/status/1657550996695023621

《 芸術的なものに近づこうとするときに、「雑にやること」を方針とするのは、それこそ雑な話ではなく、人間は成育過程で基本的に過剰に制度的抑制を受けている以上、自然的プロセスのミメーシスに向かうという意味で、正当な方法だと言えるだろう。 》 千葉雅也 Masaya Chiba
https://twitter.com/masayachiba/status/1657551819541987328

《 何か秩序化するための自分の方法論を作り、これが自分のスタイルだとそこを安心できる住まいとすることをやめて、もっと意識では捉えられない自分の身体性を勢いによって遊ばせる方向へと方向転換するのは、それでうまくいくのかわからないわけで、勇気が要ることだが、必要である。 》 千葉雅也 Masaya Chiba
https://twitter.com/masayachiba/status/1657552660575449089

《 この1週間、TLを見ているとコロナを始めあらゆる話題で人権を踏み躙られることばかりで胸が塞がる思い。
  そして一生懸命働いて高い税金を納めても、国(政府)は、国民を大切にすることはない。こんな国、国ではない。
  #PCR検査と治療薬提供の拡充を求めます 》 Blanc 🤍白猫ブラン さようならコロナ
https://twitter.com/blancnekoneko/status/1657365642885107712