『縄文論』再読・七(閑人亭日録)

 「まれびと論」(まれびとと祝祭──呪術の論理)を読んだ。

《 まれびとは海の彼方にある異界にして他界、「妣(はは)が国」(母たちの国)から、時を定めてやってくる神にして人である。 》236頁

《 そうしたまれびとへの信仰は、人類の古層にまでさかのぼるのではないかと考えられている。 》237頁

《 おそらく人類はまれびととともに世界のあらゆる場所へと広がっていった。国家という権力構造を作り上げるはるか以前から、人類はまれびととともに芸術作品を創り上げ、まれびとのように生きて来きた。 》237頁

《 まれびとはあらゆる統制に抗う、自由の原理である。来るべき芸術表現の理念になるとともに、来るべき芸術家の、」その在り方の理想ともなる。まれびとは、」宗教、芸術、哲学など現代では分断されてしまったさまざまな分野を一つに統合させ、人類の遠い過去と人類の遠い未来をいまここで一つにむすび合わせる。 》237-238頁

《 折口信夫(しのぶ)は、そのような存在をまれびとと名づけた。 》238頁

《 つまり、人類とは、言語を操る動物であり、芸術作品を造形する動物であり、なおかつ未知なる新天地に向けて移動していくことを決してやめない動物でもあった。言語とは、現実を認識し、その在り方を他者たちに向けて伝える手段であるとともに、それ以上に、現実とは異なったもう一つ別の世界の在り方、あるいは無数に異なった無数の世界の在り方を、他者たちに向けて想像させる手段でもあった。現実の世界を容易に乗り越えてしまう想像の世界を、他者たちと共有する手段でもあった。その結果として、ホモ・サピエンスにおいてはじめて、自然を素材とした芸術作品が生み落とされ(その萌芽は旧人ネアンデルタールの段階にも認められる)、海を越え、陸を越え、氷河を渡り、未知なる新天地を目指しての移動が促された(この大規模な移動だけは旧人ネアンデルタールにはできなかった)。 》247頁

《 現実の「もの」に言葉のもつ超現実の意味を刻みつける。それが呪術の本質であり、表現の本質である。だからこそ、文学の世界、芸術の世界に、繰り返し呪術的な思考が復活してくるのである。それは人類が人類であることの証明でもあった。 》255頁

 「まれびと論」(折口信夫の「まれびと」)を読んだ。

《 折口が最後にたどり着いた「まれびと」は、「日本」という限定をはるかに超え出てしまう。「古代」以前の古代、「日本」以前の日本、すなわち人間の原型的な世界に直結するものである。折口古代学が対象とする「古代」とは時間的な過去ではなく、人間が営む原型的な生活、人間にとって原初的かつ普遍的な生活を意味している。 》268頁

《 「まれびと」は、外と内の中間を生き、それゆえ、外の力によって内を活性化し、内の閉鎖を外の開放へと転換できる力をもっていた。それは、現代においては、芸術家が果たさなければならない役割である。「まれびと」は、未来の、来るべき芸術家のモデルとなるものであった。 》270頁

 「まれびと論」(岡本太郎の「太陽の塔」)を読んだ。

《 太郎の芸術は、かの子という鬼子母神ピカソというミノタウロスの間で、二人の聖なる怪物への共感と反発を通じて、徐々に形になっていった。あるいは両者の聖なる婚姻から生まれる新たな怪物として、自身の生と自身の芸術を位置づけようとしていたのかもしれない。 》279頁

《 パリ時代の太郎は、表現する「私」を変革するとともに、表現される「世界」をも変革してしまおうとしたのだ。母およびピカソと「対決」することによって。 》283頁

《 太郎は、かの子の「死」から御嶽の「空」を経て、曼陀羅という「透明なる混沌」にたどり着いた。太郎の生涯と思想はある意味では、聖家族と曼陀羅に集約される。聖なる家族の曼陀羅を描き上げること。それが太郎の生の目標であり、生の方法だった。 》296頁