同時代の規準を信用しない

 昨夕帰りがけにブックオフ長泉店で二冊。伊丹十三『ヨーロッパ退屈日記』新潮文庫2005年2刷、山口昌男『道化の民俗学ちくま学芸文庫1993年初版、計210円。前者は、『本屋さんでお散歩 「SUMUS」(スムース)が選ぶ秋の文庫・新書100冊』リブロ2002年10月1日発行という小冊子の、岡崎武志セレクションで選ばれていたから。そのミニコミ誌『SUMUS』を、先だって知り合った京都生まれで京都大学大学院生の女性はご存知なかった。同人の山本善行の古書善行堂には出入りしているのに。そんなものかな。

 後者は1975年に出た単行本が高くて見送っていたもの。山口昌男の本は、私には高価で、新刊では一冊も買えなかった。本自体が三島には配本されなかった。今のネット環境とはえらい違いだ。1984年の「あとがき」。

≪私は、「ことしの収穫」とか「ことしのベスト三」といった類のアンケートには答えないことにしている。自らも含めて、同時代の規準を信用しないことにしているからである。≫

 虚をつかれた。今、来月展示する故つりたくにこさんのマンガ原稿を精査しているところだけど、同時代に持った印象と、四十年後の現在とでは、印象が少し違っている。少ししか違わないことに、逆に驚く。1970年前後の『ガロ』に掲載されたマンガや文章には、まあ、時代に制約された古臭〜い稚拙なものが散見されるけど、つりたくにこ作品にはそれがほとんど見られない。時代を映しながら時代の制約を超えるとは、こういうことだろう。

 昨日ふれた豊浦志朗『叛アメリカ史』序文冒頭。

≪正史──教科書に書かれた歴史はみごとに首尾一貫している。強い者が勝つ。≫

≪人は、俗にいう歴史──正史を読めば読むほど、力学(リアリズム)の縦軸、倫理主義(モラリズム)の横軸によって固定化されたひとつの座標軸(イデオロギー)の中での発想を余儀なくされる。この座標軸(エスタブリッシュメント)から自由になろうとすれば容赦なき報復が待ち受けているという恫喝が伏文字として機能しているからだ。≫

 山口昌男は、そのような自由の視点から執筆している。解説で高山宏は書いている。

≪実は、<近代 >が葬り去ってきた「失われた世界の復権」という山口学の究極的主題はこの十五年間、一貫していて、一度として見失われたことはない≫

 豊浦志朗山口昌男の姿勢には、相通じるものを感じる。