『アルカディア』

 古雑誌の中から短歌雑誌『アルカディア』第三号沖積舎1980年が出てくる。特集「歌は 死んだか?」。私の拙文が載っていた。こんなことを書いていたんだ。以下全文転載。

《  「見渡せば……」
 手元に一冊の本がある。題は「相倉久人のジャズは死んだか」。
 「短歌は死んだか」という課題を受け取った時、この本を連想した。そして、ふとジャズの 歴史と短歌の可能性ということに思いが及んだ。ジャズと短歌とはまるで無縁だが。
 ニューオリンズのストリーヴィルという赤線地帯で前世紀末に発生したジャズは、約八十年の 間にディキシーランドからフリーフォームへとスタイルを目まぐるしく変えて発展してきた。 ジャズは、スタイルの変貌の節目毎にジャズは死んだと宣告されてきた。それほどに ジャズの変化は激しく根柢的で、その発展の過程を辿ると、ジャズはジャズの否定である とさえ言うことができる。従来の演奏スタイルに桎梏を自覚したジャズメンは、そのスタイルを 否定すること──演奏を単なる楽器音にまで無意味化・裸形化し、自己の内実と楽器音とが 無垢に衝突することによって、自らの表現内容を十全に発現させ得る新たなる楽器音= 演奏スタイルを創り出してきた。それは聴く側からすれば、新たなる意味世界の出現である。 そしてフリーフォームジャズにあっては、ジャズメンはもはやどのように演奏してもかまわない のである。翻って言えば、ジャズメン一人一人が独自の方法意識を持たねばならない。
 さて、ディキシーからフリーまで通して聴いてみると、表面的には何らかの共通性を 見出すのは難しい。が、内面的にはこれ全てジャズとしか言いようのない共有性がある。 それは方法・表現内容の如何に拘らず、ジャズという言葉でしか表わし得ぬものである。 おそらく、それは短期間のうちに変転を極めたジャズの歴史を貫く自己の必然性があるからで あろう。その核は、極言すれば演奏においてジャズという言葉を選び取った時、彼は ジャズメンであると、断言する意識の時間的空間的共有性であろう。
 同様に、人が短歌を選んだ時、彼は短歌人なのである。(短歌を選んだ時、彼の背後には 一千有余年連綿と続いてきたこの歴史が杳かに広がっていよう。彼は未知へ向けて短歌を 作る。)
 ここにもう一冊本がある。その中の一章にフリージャズトリオの山下洋輔、小山彰太、 坂田明が共同執筆した「ハナモゲラ三十一文字の世界」がある。フリージャズメンが作った 短歌だから自由形式短歌とも言えよう。一首を引用する。
 へれけのむ けこにてみを にょじりんの あせれろちゃくり けぬじきぬのん
 これは、かの有名なる
 しろがねも こがねもたまも なにせむに まされるたから こにしかめやも
 をヘラハリ和歌のはくちへんげの法によって歌いかえたものである。
 真面目な人は、こんな馬鹿馬鹿しいことをと怒るかも知れない。江戸狂歌
 菓子壺に花も紅葉もなかりけり口さびしさの秋の夕ぐれ
 七へ八へへをこき井出の山吹のみのひとつだに出ぬぞよきけれ
 までは容認するが、と。
 けれども、パロディ狂歌を更に進めて、意味そのものを無化してしまう徹底した脱色が、 意味や狭い自己意識、観念世界にややもすれば足をすくわれたり、タコツボにもぐり込んで しまいがちな現代短歌には必要な気がする。短歌を、このような言葉の白い虚無にまで、 自らを笑い飛ばすが如く解体せしめることなしに新しき歌が大いにおこることはないように 思われる。
 短歌とは「和歌の一体。長歌に対し、五七五七七の五句体の歌。」と広辞苑は定義している。 五七五七七三十一文字ただそれだけの拘束から出発することが大事であるように思えるが。 何といっても、短歌人は真面目に過ぎるのである。テッテ的に笑い飛ばすこと、歌い狂うことも、 たまには精神衛生上必要であるように思う。
 短歌はまだまだ充分に生きているとは言えない、だから死ぬ訳にもゆかぬだろうというのが、 短歌を外野席から声援している者の感想である。 》

 二十九歳の拙文。今と変わらぬわ。進歩がねえってことか。執筆者紹介は。

《 三島市に住み、文学だけではなく音楽や美術にも詳しい人ということ以外は不明の、 謎の書き手である。 》

 ブックオフ長泉店で四冊。村上春樹1Q84 BOOK3』新潮社2010年初版帯付 (買い替え)、北村季吟源氏物語 湖月抄(上・中・下)』講談社学術文庫2007年11刷、 2002年10刷、2002年9刷帯付、計432円。後者は読みもしないのに欲しかった。100円に落ちたので 即購入。

 ネットの見聞。

《 おそらく梅津さんの発語の裡にはクレオールやジューイッシュたちの混血、あるいは 旅する音楽が強く意識されているにちがいない。一つのカテゴリーに押し込められた ジャズをその基底に埋没させられた放浪の記憶を掘り起こすことでこの音楽が本源的に 持っていた多様性を力ずく取り戻そうとする労作業だ。 》 offnote
 https://twitter.com/offnote_info

 梅津和時の演奏は三島で何度か視聴。ベツニ・ナンモ・クレズマー『アヒル』ディスク・ ユニオンには彼のサイン。1998年。

《 ソログープの「毒の園」は坂東壯一先生の大好きな小説でもある。文庫サイズの古書を 解体してご自分で製本されたのを見せていただいたことがある。「好きじゃない小説が いっしょに入ってると嫌なんです」と苦笑しておられた。 》 林由紀子
 https://twitter.com/PsycheYukiko

 「毒の園」は『かくれんぼ・毒の園』岩波文庫2013年初版に収録。

《 展覧会は規模ではなく質と可能性の提示。小さくてもすごいものはすごい。 》 原研哉
 https://twitter.com/haraken_tokyo

 ネットの拾いもの。

《 古本屋あるある。「レアものいっぱいあるから見て!」と言われたが むしろウェルダンすぎて買い取れない。 》

《 いいよなあ、台風は進路が決まってて……。 》