『吟遊星』14号 

 御沓幸正氏の『吟遊星』14号(多分最終号)1982年をうっかり忘れていた。彼一人の 作品で埋められている。「ヒッチ俳句(最終回)」の筆名は亜北斎。一部紹介。

   心象は膨大にして夕焼ける
   本能のずれと歪みや首都の夏
   かへりなんいざりもまじる川花火
   いか刺に西日さしこむ寺泊り
   緑陰に碁をうつせみの木乃伊取り
   人だかり覗いて僧の後ろ秋
   名にしおへば露と答へてしまひけり

 詩の題は「浮世雑詩」御沓幸正。これも一部を。

《  現実とは
   垢と苦労の
   恋愛論
   それはやむを得ないとしても
   風呂に入ること
   石鹸が減ること
   こと こと こと
   しっかりして あなた  》

《  方便を
   しこためた
   おじいさん
   きとくれに
   駆けつける
   孫子かな   》

《  穴おかし
   灸すればお通じ  》

《  起
   昇天
   結   》

 夜ふっと気持ちが静まるとき、北一明『玳皮白流茶碗』(たいひはくりゅう)を手にする。 見込み、口縁から高台までじっくりと眺望する。21日に以下の文を書いた。

《 北一明の茶碗は釉薬による文様ではなく、造形の基礎の上に釉薬による深遠な絵画性と 物語性を蔵している。 》

 優れた絵にたいして私は、絵の具離れという評言をする。絵肌がどうの、色合いがどうの、 と言う以前にその絵に瞬時に呑まれ、没入してしまう。我に返り、絵肌、配色、構成などを 距離を置いて鑑賞する。本当に優れているか、と疑問の目をぶつける。K美術館で展示した 絵画は、そんな過程を経て選ばれたものだった。
 北一明の茶碗は、三十五年前東京の新橋アートホールでの個展で初めて見(まみ)えた時、 まあ美しいとは思ったが、それ以上の驚きはなかった。焼きものには興味がなかった。しかし、 あれは何だったろうと気になった。調べるにつれ、北一明作品の、伝統からの桁違いの突出に 気づくようになった。絵の具離れにたいして、釉薬離れとでも言おうか。他の人の茶碗とは まるで違って、炎と釉薬を完全に支配下に置き、使いこなしている。良い絵は画格が大きいと いう。良い茶碗は器格が大きい、か。ちと違うか。
 絵画的ではなくて絵画性。炎と釉薬との予期された化学反応から成るべくして成った絵画性。 茶碗からは気韻生動=品格のある生のダイナミックな動きが活き活きと伝わる、夢幻の絵画性。 デザイン性に優れた茶碗、絵画のような茶碗はいくらでもある。夢幻の絵画性に優れた茶碗は、 北一明以外に果たして……。そして耀変の圧倒的な美。
 作品が正当に評価されるにはまだ何年も要するだろう。

 午後、グラウンドワーク三島のイヴェントで松毛川へ。150人ほど集まり、植樹や草刈りを する。開幕と閉幕の挨拶をする。夕方帰宅。宵、家の前では神社のお祭りのお囃子。後ろでは お寺のお施餓鬼会のお念仏。賑やかなこと。

 お疲れ様といったふうに、ネット注文した古本、洲之内徹セザンヌの塗り残し』新潮社 1994年7刷函帯付が届く。1200円。

 ネットの見聞。

《 相手がルールを守らないのに、こちらがルールを守り続けることを「猿を相手 に紳士のゲームを続ける」と言う。紳士は猿にならない。猿が紳士になるの待つのだ。 猿が噛み付いてきたらどうするのか? そりゃあ君「ハンティング」というゲームに 変わるだけのことだよ by チャーチル 》

 ネットの拾いもの。

《 正という字の部首は止(とめへん)なのか 》