「パラダイムの転換」

 木田元・編『一日一文 英知の言葉』岩波書店2004年2刷、6月17日のトーマス・クーンの言葉。

《 パラダイムはある一定期間成熟した科学者集団が採用する方法、問題領域、解答の規準の源泉となっている。 その結果、新しいパラダイムを受け入れることは、それに対応する科学の再定義を伴うことが多い。若干の古い 問題は別の科学に追いやられるか、全く「非科学的」と焼印を押されることにもなる。また、今まで存在しなかった、 あるいはつまらないとみなされていた問題が、新しいパラダイムの下に脚光を浴び、科学上の仕事の原型となる。 そして問題が変わるにつれて、本当の科学的解答と単なる形而上的思弁や言葉の遊戯、数学遊戯を区別する規準も 変わることが多い。 》

 美術においてもパラダイムが問われていると思う。その再構築に挑戦している一人が椹木野衣(さわらぎ・のい) だと思う。機は未だ熟さないようだ。しかし早晩転換は起こる(起こったと気づく)だろう。大言壮語の言説が溢れる 二十世紀の美術作品は、どのように分別されるだろう。興味津々だが、それまで生きていられるか。
 山崎正和『社交する人間』中央公論新社2003年2刷にはこんな記述。

《 人類史のなかで生産と分配の経済と贈与と交換の経済は、それぞれの異なった時代背景を反映しながら、しかし 振り子のように重点の往復を繰り返してきた。それはまぎれもなく社交の興亡と同調していて、その運動が生活史の 全体を変化と揺り戻しの波に乗せてきた。そしてこの歴史の教訓がいま予想させることは、十九世紀以来のあの 工業技術の思想が急速に終わりを告げようとしていることだろう。文明の重点は贈与と交換の経済に戻りつつある ようにみえる。いうまでもなくそれは生産と分配の経済が衰えたからではなく、逆にその成功が極大に達したから 起こった逆説であって、歴史の弁証法は二十一世紀におよんでも死んでいないようなのである。 》 172-173頁

 ふと本棚から山口昌男『「挫折」の昭和史(下)』岩波現代文庫2005年初版を取り出し、福田和也の解説を読んだ。

《 山口氏のイレギュラーな脈絡から受ける刺激は、数え挙げているとキリがないが、たとえば冒頭の「私の人類学の 師匠」である岡正雄についての記述。(中略)この部分を読んで私が昂ぶってしまったのは、岡がウィーンにいた時期に、 丁度、山下泰文もまた駐在武官としてウィーンにいたからである。(中略)山下は、ウィーン滞在時代、ウィーン大学の 講義を聴講しつつ、社交生活にも精励しており、その主要な舞台は、クーデンホフ=カレルギー光子のサロンであった。 》  399-400頁

 社交する人間! 連環。

 朝、源兵衛川中流部、三石神社周辺のヒメツルソバなどを抜く。土のう袋一袋に詰めて終了。帰宅、水を浴びる。 昼食を遅らせ野暮用を片付ける。午後ゆったりした気分でしばし音楽に浸る。同行依頼の電話。ほいきた。

 ネット注文した古本、ジャック・デリダ『精神について』人文書院1990年初版帯付が届く。美本。700円。

 ネットの見聞。

《 こんな法律通ったら終わり。
  バカかよ。要介護2の人の介護したことあったら絶対こんな考えにはならない。毎月800円でレンタルできる車いす、 300円でレンタルできる手すりでどれだけの人が在宅で過ごせているか統計を取ってみてほしい。 》 sacci
 https://twitter.com/sugarsacci/status/744839566826184704

《 メディアが選挙報道の最初にすべきことは「前回の総選挙で各党が何を約束したか」「選挙のあと、 与党はその約束を守ったか」の検証で、この検証なしに「各党の公約は」などとロボットのように聞く意味がわからない。 選挙で勝った側は選挙前の約束を守らないでいいという慣例を、メディアが作っている。 》 山崎 雅弘
 https://twitter.com/mas__yamazaki/status/745111920684916736

 ネットの拾いもの。

《 「道半ば」というより、この人、もう道を見失ってると思うよ! 》

《 十二指腸妖怪 》

《 そう言えば「住基ネット」なんて巨額の税金使っていつのまにやら消えたと思ったら「マイナンバー」で復活。 今度はいつ消える? 》