『「敗者」の精神史』

 昨夜パソコンが不調に。午後九時回復。やれやれ。山口昌男『「敗者」の精神史』岩波書店1995年初版を読了。 実に面白い労作だ。

《 今日各分野の学問が目指している学問の形は、事実のヒエラルキーにある。一定のパラダイムの中で、或る一群の事実に 上下関係を持たせて事実間の階層秩序を特定するというのは、近代の実験を基礎にした科学である。それに対して江戸期以前の 知識は、因果関係より、曼荼羅的な配置を重んじるものであった。従って物質及び生物においては本草学または博物学が、 事的世界においては随筆的な形態を取ることが多かった。 》 535-536頁

《 ここに柳田[国男]の学問政治を克明に一人ずつ説くのも興なしとしないが、紙数がそれを許さない。しかし、[山中] 共古と南方熊楠だけは、さすがの柳田をもってしても排除不可能な存在であったようだ。 》 536-537頁

《 薩長閥を中心に原型が形成された、近代日本の単一階層分化社会による学歴・政治・経済の堅い組織が行きづまりを 見せている今日、薩長閥的官僚機構から排除されるか、一歩外に出た人士が形成したネットワークは、人は何をもって 他人と繋がるかという点で示唆するものが極めて大きいと言わなければならないだろう。 》 540頁

《 本書で説いて来たのは、日本近代の公的な世界の建設のかたわらに、公的世界のヒエラルキーを避けて、自発的な繋がりで、 別の日本、もう一つの日本、見えない日本をつくりあげて来た人がいたということである。その人たちは公的日本の側からは 見えない人たちであったために勲功の対象になることはほとんどなかった。(中略)頭を冷やして、心から納得のいく生き方を 探し出す作業の手がかりとして、本書において対象とした人たちのモデル(範型)を見つめるのは決して無駄なことではない。 いや敢えて言えば、そうした無駄こそ我々が必要としているものであるかも知れない。 》 「結びに替えて」555頁

 源兵衛川のゴミ拾い清掃、そして午後から始まった新プロジェクト。他人から見れば無駄な、と思われるだろう。けれども 参加している人たちはみな面白がっている。上下ではなく水平繋がり。人生、こうでなくっちゃ。

 ネットの拾いもの。

《   柔肌の熱き血潮に触れもみで寂しからずや道を説く君   与謝野晶子

   超訳

    さっさと押し倒せ  》