三行で十分

 午前中、友だちに頼まれて、友だちの運転で東京からの客人を清住緑地〜源兵衛川などを案内。清住緑地ではカワセミが10メートルほど先の水面に伸びている小枝から1メートルほど下の水に数回飛び込んで小魚を採っていた。

 安岡章太郎「幕が下りてから」講談社1967年、なんとか読了。栞の「著者インタビューより」。

≪ぼくが書きたかったのは、家の崩壊にともなう個人の心の痛み、といったらいいだろう。≫

 ふうん。あ、そう。栞の本多秋五の評。江藤淳の「成熟と喪失」を引用して、

≪安岡作品には「作者がその重みを感じながら意味をつかみ切れぬ体験を、資質と描写力だけに頼ってつなぎあわせている」箇所が多いという評言は、今回の「幕が下りてから」にもあてはまると思う。≫

 同感。開高健「ALL MY TOMORROWS I 」角川文庫、「絶えず自己破壊を」の一節を連想。

≪個人の内面のひだをこまかくデリケートに描いてゆくことは、今日では、ほとんど無意味にちかくなっているのではないかという気がする。どれほど才能ゆたかな作家のものでも一篇の結末ははじめとおわりの三行で十分教えられてしまう。あとは多少のポエジーの鮮度の相違があるばかりである。≫1958年

 グラウンドワーク三島関連の話題、それ、あれ、これ。