「 生誕の災厄 」

 E・M・シオラン『生誕の災厄』紀伊国屋書店1976年初版を拾い読み。 出口裕弘(でぐち・ゆうこう)は「訳者あとがき」に書いている。

《 どのページでもいい、気ままに本を開いて、胸にこたえる一行があったら、 そこから読みはじめていただきたい。 》

《 近親者こそ、どこの誰にも増して、私たちの価値をすすんで疑問視する人たちだ。 》  153頁

《 台座の上に立つくらいなら、下水に塗(まみ)れるほうがまだよい。 》 154頁

《 癲癇の患者が発作の最中に力を消耗しきるように、 会話のなかで力を使い果たす。 》 155頁

 長くもない視察の案内を終えるとぐったり、一日の体力を使い果たした気分。 昨日午後、歩いてきた私を見て友だちが「ひどくおじいさんに見える」と言った。 自分でもよくわかる。

《 鬼面人をおどろかすの態(てい)は、判断の基準にならない。 パガニーニはバッハよりもはるかに驚きと意外性に充ちている。 》 157頁

 さりげなく見える絵画にも言える。その背景に見透せる人性の奥深さと広がり。 それを感じ取れるか否か。

《 何ごとにもよらず、深く掘り下げたことのない人間だけが、信念を持つ。 》 177頁

 信念。考えたことがない。

《 大都市においても、ささやかな部落にあっても、人間が一番好むのは、 同胞のひとりが没落する情景に立ち会うことである。 》 181頁

 低空飛行の生活なので、墜落しても擦り傷程度。

《 私たちがある人物を讃美するのは、その人物に対しておおかた責任を 負わずにすむときだけだ。讃美は尊敬とはなんのかかわりもない。 》 196頁

 物言えば唇寒し。ここは無言で。

《 沈思の、あの空っぽな時間こそ、比類のない充溢の時である。私たちは、 中身のうつろな瞬間ばかり重ねたからとて、恥じる必要はない。外見(そとみ)は 空虚でも、内実は充たされているのだ。沈思はこの上ない閑暇だが、 その秘訣はすでに見失われてしまった。 》 204頁

 閑暇亭に変えようかな。それはさておき。空虚と空疎の違い。これは大きい。

 午前、千葉県から視察に来た十五人ほどを源兵衛川と清住緑地へ案内。予定通り ぴったり一時間半で終了に同行の女子は感心。仕事だから当たり前のこと。

 夕陽が目に沁みる。