「詩人の愛」つづき

 正津勉『詩人の愛』36番目の詩は伊藤静雄「わがひとに与ふる哀歌」。冒頭二行。

《  太陽は美しく輝き
   あるひは 太陽の美しく輝くことを希ひ  》

 学生時代この二行を口ずさんでいた。この痛ましいまでの美しさ。選ばれた五十篇の詩、どれもいいが、それに輪をかけて鑑賞文がいい。二頁ほどに詩人の人生と詩の特色が、過不足無く綴られている。これはいい。鑑賞の最初に決め科白が来る。歌謡曲の出だしみたいだ。冒頭はこんな感じ。

《 「歌は私の悲しい玩具である」。啄木の歌は悲しい、さらにもっと悲しきデーモン、啄木の生は悲しい。 》 石川啄木

《 詩を書くか、神に祈るか。暮鳥は煩悶の詩人だ。信仰か、芸術か。彼の生はつねに引き裂かれつづけた。 』山村暮鳥

《 犀星の生涯は母を訊ねる旅だった。犀星の文学は母に訴える涙だった。 》 室生犀星

《 詩は暗い。詩は重い。そのように多く一般に考えられている。たしかに大方はそうだ。しかしこの人の場合に限りこういおう。詩は明るい。詩は軽い。 》 堀口大学

《 萩原恭次郎は革命詩人だ。いま読んでもその詩は掛け値なしに凄い。むろんのことその生涯も尋常であるべくもない。 》 萩原恭次郎

《 世の人は詩人は無用の者と言う。亀之助ほどにこの言葉にふさわしい御仁もまたといまい。 》 尾形亀之助

 きりがないので止めておく。未知の詩人も数人。竹内てるよ、左川ちか、淵上毛銭、森川義信。まだまだ知らない優れた詩人はいる、にちがいない。

 『詩人の愛』に選ばれた詩は、音楽でいえばその多くがクラシックではない。クラシック音楽は頭、歌謡曲、ポップスは胸、ジャズは腰、レゲエ、サルサ、サンバなどのラテンダンス音楽は下半身にまず来る、と考えている。「わがひとに与ふる哀歌」は胸に来る。私の知る現代詩の多くからは、クラシック〜現代音楽と同じ印象を受ける。胸にくる〜身体感覚に直接響く詩は、バカにされるのか批評の対象にならない。

 下記は、西洋哲学とクラシックの近親性を感じさせる。

《 カミュが微妙に哲学者から嫌われているのは、彼が「気分」や「身体実感」や「体性感覚」に基づいて命題の適否を判断してしまうからなんでしょうね。橋本治さんだったら「カミュの身体は頭がいい」とおっしゃることでしょう。 》 内田樹