『震美術論』三

 椹木野衣『震美術論』美術出版社2017年初版、「第6章 再帰する未来、美術館と展示の臨界」「第7章 転生する陸前高田と「秩父湾」」「第8章  溺れる世界と「ソラリスの海」(前編)」「第9章 溺れる世界と「ソラリスの海」(後編)」を読んだ。本筋から離れた論述が気になった。

《 ある物的対象が密度のある量感=マッスを持っている、すなわち彫刻に見えるということは、視覚的に言えば、当の対象が(表面だけでなく)、内部から 表面へと力が働いた結果、輪郭ができているように見えるのと同義なのだ。つまり、ある対象が彫刻として見えるとき、私たちはおのずとそれを表面に処理が 施されただけの物体(オブジェクト)としてではなく、充満した内部を想定しうる物質(マテリアル)のかたまりとして「丸ごと」受けとめている。そのとき、 輪郭は実は輪郭ではなく、表面に見えたものは表面ではない。かたまりには輪郭も表面も厳密にはないからだ。 》 222頁

《 言い換えれば、ガレージキットのフィギュアなどでは、私たちはそうした内部から表面へと向かう力(ムーブマン)を対象に見ようとはしていない。 求められているのは、フィギュアの肌面へと向けられた視線が──対象を射抜くのではなく──接触して跳ね返ることで、その表面をフェティッシュに 撫で摩(さす)ることだからだ。物体の持つ面を目で撫でる=愛でるだけなら、対象が彫刻的な「密度(マッス)」を持つ必要はない。この点では、日本で 彫刻と呼ばれてきたものは、仏像から人形を経てフィギュアに至る造形物のほとんどすべてがきわめて二次元的であり、もっとわかりやすく言えば偶像的(アイドル) であると言える。結局それらは、三次元的に湾曲した二次元の表面に描かれた絵の集合なのである。逆に彫刻が物質の密度なのであれば、私たちはそれに触れる ことはできないし、表面を撫で摩っても意味を持たない。ただし、容量(ヴォリューム)ということであれば話は別だ。容量とは、量感や密度と違い、いわば 絵画で輪郭、つまり面積にあたるものが三次元化された際の器物性の形容にすぎない。ゆえに彫刻であろうが人形であろうが、大小や素材にかかわらず容量はある。 すなわち、彫刻とそうでないものとの違いとは、容量の相違にかかわらず量感もともなうものと、容量はあっても量感を持たないものとの差にほかならない。 》  222-223頁

《 もの派は日本において、彫刻がかたまりのような量感を持つことを断念する代わりに、現象学的な次元でそれを補おうとしたと考えることもできるだろう。 》  225頁

 ネット、いろいろ。

《 福島原発事故、原子炉に届いた冷却水は「ほぼゼロ」だったと判明 》 現代ビジネス
 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52931