大岡信『生の昂揚としての美術』大岡信フォーラム(花神社発売)2006年初版、多田美波、菅井 汲、宇佐美圭司、福島秀子、榎本和子、嶋田しづ、丹阿弥丹波子、 秋野不矩、曽宮一念ら画家、写真家村井修、建築家菅原栄蔵の紹介と批評を読んだ。福島、榎本、嶋田、村井、菅原は未知の人。
《 一九五◯年代も半ばを過ぎたころ、私は谷川俊太郎を通じて武満徹という眩しいような作曲家を知った。 》 「福島秀子を発見する」 234頁
数日前の夜、知人の店で催された津軽三味線奏者高橋竹山の映画鑑賞会の後、監督と若い観客二人を自宅へ招いた。函館在住の監督大西功一氏に民謡歌手藤井ケン子の レコードを紹介。氏は津軽家すわ子や浅利みきはご存知だったが、藤井ケン子は未知。試聴されて驚かれていた。その流れで本題へ。函館出身の味戸ケイコさんの話へ。 若い男女には沼津市出身の尺八奏者横山勝也のカセットテープ(音楽之友社)を。履歴には「静岡県沼津生まれ。」そして上記引用の武満徹との関わり。「'67年武満徹曲 『ネヴェンバーステップス』を」。おお、と女性は驚く。驚きついでに彼女の住まいの伊豆の国市の「真言立川流」の研究本を見せるとまたまた、え~!
《 色彩や形態は、生まれ出てきて、力強く語りかけてくるものだが、彼らが語ることは、方法や理論ではない。。(中略)というのも、芸術制作で最も大切なことは、 一瞬のひらめきの中にしかないからである。方法論や理論からは、一瞬のひらめきは生まれない。 》 「嶋田しづの新作」 253頁
《 言うまでもなく、メゾチントの黒も、深い含羞の色であろう。 》 「丹阿弥丹波子」 261頁
丹阿弥丹波子の銅版画にはさほど魅力を感じない。すなわち、手元に置きたいとは思わなかった。他の画家たちの絵も。続く「ポスター、デザイン、そして詩」1997年 初出。
《 デザインは、その最も先鋭な表現においては、「美」とか「造形的完成」とかいう基準によってではなく、作者の現実認識の新しさそのものによって人を打つことが ありうるし、多くの作者がそのような方向を目指してもいるということ。そしてそのような特質をもつものとして評価もされるということ。反面、作者の意図も理解 できず、作者の一人よがりを不快に思う公衆をも、デザインは必然的に生み出さざるを得ないだろう。 》 294-295頁
最近の現代アートと呼ばれる作品への風当たりを言っているよう。
《 その意味では、自分の前に置かれている芸術作品、デザイン作品が、独創的であればあるほど、直接簡単に「わかった! すばらしい!」とは言えないことが、 いつの場合でもありうるのである。 》 296頁
《 情報伝達の迅速化といい、交通機関・交通網の発達、人と人との交流の輪の広がりといい、すべてが私たちに与える実感は、地球は狭くなった、ということである。 しかし、このおかげで私たちは逆にますます明瞭に、人と人との間にある、小さく見えるが本質的である違いや距離を意識せざるを得なくなった。 》 297頁
最後の「柳宗悦」1986年初出を読んだ。
《 彼らは、哲学思想は哲学思想、焼き物は焼き物、ぜんぜん別の次元にある物だと、理由は漠然たるものでありながら頑固に信じている。そこには、「思想」を「器物」 の優位に置こうとする一朝一夕では抜きがたい習性があって、その立場からすると、思想家とよばれるほどの人の文章は、そんなに簡単にわかるようなものであるはずが ないということにもなったのである。 》 302頁
《 もちろんこれによって、「悲哀の美」を朝鮮芸術全体の特質とする宗悦初期の考え方の一方的主観性を正当化する必要はない。私が不思議に思うのは、当の宗悦自身に よってその後克服されている、「哀愁」に力点をおく感傷過多の論が、今なお「はかり知れない大きな影響」を与え、「すっかり定着した観」があると断じられている (出川直樹『李朝陶磁新考』昭和五十七年、創樹社美術出版)ような事態がなぜ生じたかということである。宗悦の李朝陶磁観への批判の大半はこの観点からなされている。 》 323頁
出川直樹『やきもの鑑賞入門』新潮社1997年初版から。
《 一九八八年、筆者は、生きた人間を想定しないこの工芸理論は現実に対して力を持ち得ないとして、民芸理論体系のほとんどすべてを否定した。(「民芸・理論の 崩壊と様式の誕生」新潮社刊)。
が、「民芸」の提示した古民芸の素朴な美しさは、その理論の破綻をよそに人々の大きな支持を受けている。 》 25頁
「柳宗悦」に戻る。
《 柳宗悦の文章がわかり易いということは、この人の物の考え方に、今いったような意味での序列(ヒエラルキー)意識がないからにほかならない。その点では、 彼の文章のわかり易さは、むしろそれそのものにおいてひとつの明確な思想的立場の表明にほかならないといってよかった。またその文章の勢いのよさは、彼の思想の 首尾一貫性からもたらされる当然の結果にほかならなかった。「思想」とよばれるものと、「器物」とか「造形作品」とかよばれるものとのあいだに、脈々と相通じ、 貫流しあっているニにして一なる理法を直覚的に把握すること、宗悦が終生拠って立った行動原理の根本はそこにあった。 》 302頁
大岡信自身を語っていると思う。大岡信『生の昂揚としての美術』読了。
ネットでは対談、講演のお知らせが毎日のように掲載。作家たちの話で行ってよかった、というのは・・・記憶にない。が、来年二月に三島で催される大岡信に関する 講演会の協力をしている。展覧会は開催するものも好き。来月13,14,15日の三日間、JR総武線津田沼駅前の習志野文化ホールのギャラリーで牧村慶子展を自腹で 開催。友人知人が協力してくれる。ありがたい。 http://www.city.narashino.lg.jp/shisetu/kominkan/640120150619145916454.html
ネット、うろうろ。
《 どうして面白くないのかを考えると、勉強はすでにわかっていることを教えてくれるわけで、わからないことを教えてくれるわけではない。 でも本当に面白いのは、わからないところを自分で探求することなんです。/菅裕明 》 WIRED
https://wired.jp/waia/2019/15_hiroaki-suga/
《 先端という言葉に対しての異端、ですね。異端は圧倒的なパワーを出したとき、ほかの人たちがそれを認めたら先端に変わるんです。/菅裕明 》 WIRED
《 s+artsの大矢雅章展 ‘View-life force’を見る 》 mmpoloの日記
https://mmpolo.hatenadiary.com/entry/2019/11/21/190210
「世紀を越えて-大矢雅章と佐竹邦子」越沼正
http://web.thn.jp/kbi/satake2.htm
《 こんなに国会が「桜審議」だらけになって、
答弁で収めることが出来ないなら、
「国政に遅滞があってはならない」なら、
辞任すべきじゃないんですかー 》 buu
https://twitter.com/buu34/status/1197559667729108998
《 中村淳彦さんと鈴木涼美さんの中間に実社会の力点が存在すると思うんだけど、どちらの極地にも事実と実感が転がっている点が現状の混沌具合をよく表していると 思う。 》 和
https://twitter.com/kyam1999/status/1197483673442045952