昨日は見なかったが、このひと月あまり、北一明の茶盌三点を卓上に並べて鑑賞している。普段鑑賞する茶盌は、二級品と私が見なすもの。傍から見れば一級品或いは三級品と映るかもしれない。北の一級品は、ほとんど鑑賞しない。手にして愉しむには、二級品で充分。二級品の特徴は、この茶盌はもっと磨きがかかるだろう、というさらなる高みへの可能性を感じ、期待を持たせる。それがどの程度の優品かわからないが、さらに優れたものができる予感と期待。一級品を知ってしまった現在、一級品と目される茶盌は、秘蔵。そして思う。北一明は一級品を私によこした、と。画集未掲載の茶盌は、最終の焼成、制作時のものだろう。「楊貴妃の肌みたいだ」と北は自賛した。白地にかすかに桃色が浮かぶさまは、確かにそう感じさせる。一級品はよく晴れた日、自身が誠に冷静な時にしか鑑賞できない。今年になってそんな日はまだない。
昨日ふれたカスパー・ダヴィット・フリードリヒ。彼を初めて知ったのは、『現代の絵画 7 19世紀の夢と幻想』平凡社 昭和48年3月30日初版第1刷。全24巻でこの一冊だけを購入した。なぜこれだけ購入したのか、半世紀前のことで理由は記憶にない。この一冊は愛読書だった。ヨハン・ハインリヒ・ヒュスリ、ウィリアム・ブレイク、カスパル・ダヴィト・フリードリヒ、リチャード・ダッド、ギュスターヴ・モロー、アントワーヌ・ヴィエルツ、アールノルト・ベックリン、オディロン・ルドン等々綺羅星のごとき画家たち。あらためて見ると、今も惹きつけられてしまう魅力がある。東京国立近代美術館で開催されたフリードリヒ展はよかった、という記憶。実物に接するのはとても大事。中学三年のとき、学習雑誌の巻末に名画の紹介があった。ピカソの『鏡の前の少女』が記憶に焼きついた。三十年後、上野の森美術館で催されたニューヨーク近代美術館展で実物に接した。畳一畳ほどの大きさ。欲しい、と思った。同じ雑誌でマチスの切り絵『王の悲しみ』にも出合い、実物を見たいと願っていたら、テレビ番組でポンピドゥー・センターを紹介していて、入口付近だったか、その絵がドカンと映った。想像よりもはるかにきい。ポンピドゥーは遠いな、と思っていたが、そこでつりたくにこさんのマンガ原稿が五点、展示されるとは。呼ばれているよう。これらはいずれも一級品だ。