マルテの手記

 ライナー・マリア・リルケ(1875-1926)「マルテの手記」(1910年)読了。二昔前に挫折、今回は読みきった。先の見えない鋭角に曲がってゆく言葉の隘路を目測しながら外れぬよう辿ってゆくのはかなり困難な作業だった。富士川英郎の解説から。
「といってもこれは普通の意味での小説ではない。この書はマルテ・ラウリッツ・ブリッゲという若いデンマーク詩人が、そのパリにおける孤独と惨落の生活のなかで、人知れず、ひそかに書きためた手記という形式をとっているが、言い換えれば、これは詩人の内面記録とでもいうべきものなのである。そこにはいわゆる小説らしい一貫した筋の運びも、眼につくような構成もなく、ただ、マルテの書いたいろいろな覚え書や回想や瞑想録のようなものが、別に秩序もなくそこに並べられていて、全体がひとつの大きな断片(フラグメント)といったような趣を呈している。」
 読了したときはやれやれ、だった。興味深い文章がいくつかあったけど、ここでは末尾近くから。

「彼はサフォーの愛の深さと遙けさとを思ってみた。愛する人間が二人の体を一つにすることは、ただ孤独をそれだけ深めるのにすぎぬ、と彼女はすでに考えたらしい。彼女は『性』の無常な願いを、かえってその無限な意味でみごとに打ち破っていたのだ。彼女は抱擁の暗い闇の中に直接な満足を求めず、むしろいっそう激しい心の憧憬へひかれていったのだ。」大山定一訳

 ここからリトアニア生まれのユダヤ人哲学者エマニュエル・レヴィナスを連想した。熊野純彦レヴィナス岩波書店95頁からレヴィナスの言葉。

「愛撫は開示の志向性ではない。愛撫はさがしもとめる志向性であり、見えないものへのあゆみなのである。ある意味では、愛撫は愛を表現するが、愛をかたりえないことに苦しんでいる。愛撫はこの表現そのものに飢えており、不断に増大してゆく飢えのうちにある。そのゆえに、愛撫はその到達点よりも遠くへとおもむき、存在するもののかなたをめざす」