『芸術マイナス1』(閑人亭日録)

 昨日ふれた大岡信『芸術マイナス1』弘文堂昭和35年9月9日初版を、『大岡信著作集 第四巻』青土社昭和五二年四月二五日発行で読んだ。著作集は抄録で、「芸術マイナス1 戦後芸術論 抄」となっている。収録された最初の「現代詩のアクチュアリティ」(「早稲田大学新聞」一九五八年九月三十日)冒頭から瞠目。

《 抽象彫刻とふつうよばれている分野に属する彫刻家とこんな会話をした。
 「作品を制作するとき、材料に対してどんな態度をとりますか。たとえば木とか石とか鉄とか、材料によってそれぞれの必然性があると思うんですが、そうした必然性を生かすような具合にモチーフにも修正を加えていきますか、それとも……」
 「ぼくの場合、材料のもっている内的な必然性は、可能な限り殺していこうと思っています。木なら木の固有な性質を殺してしまったあとに全く別の有機体を誕生させたいと希っているからです」
  この返事は、暗に反対の答えを予期していたぼくに一種複雑な衝撃を与えた。別の有機体、別の物質、別の現実──人間はなぜこうも、「別の」ものを作りたいのか。 》 296頁

《 実際、作品がそれ自体一個の独立したものであるという発見は、近代芸術の最大の発見のひとつだったといえるし、一篇の詩あるいは一枚のタブローについて、宇宙の法則を考えるのと同じ熱意をもって表現の理法を考える芸術家が出現したのも当然のことだった。しかしそれは、一篇の詩あるいは一枚のタブローが、宇宙に類推しうるほどの混沌たる実質と、その混沌を貫いてまさに宇宙的なものにまでそれを高めている法則を内に秘めていると信じられたからにほかならなかったのではないか。ここでは、むしろ素朴なほどに、自然的なものと法則的なものとの幸福な合体が夢見られていた。
  今日はどうか。一篇の詩を作る行為を宇宙の認識に連なるほどのものとして考えようとする詩人など、ほとんど跡を断ってしまった。 》 297頁

 これが1958年9月の発表とは。全く古びていない。いや、今もって有効な、正鵠を射た指摘だ。
 昨日引用の「前衛のなかの後衛」(「現代詩」一九五六年十一月号)を読んだ。「現代詩のアクチュアリティ」より二年前の発表。他を読み進めていくと、引用したい箇所がいくつも。

《 生涯をかけて追及すべき、ただひとつの主題をつかめ。
  ぼくが、書くためには方向性が必要だと書いたのは、このことを言いたかったにすぎない。たしかに、現代世界の様相は、われわれの興味を際限もなくそそりながら、かつ不快極まるものだ。 》 「あて名のない手紙」(「現代詩」一九五五年十二月号)303頁

《 たとえば、シュルレアリストにとって貴重な発見であった人間の無意識界は、そこに民族的神話の思想が導入されることによって、巨大な憎悪と、征服欲と、信じられないほど惨忍な行動の源泉となりうることがナチズムによってはっきり示されたし、われわれの場合にも同じようなことが起こったことをぼくは知っている。 》 同上 311-312頁

 現在発表された文章と言われても疑わない。以下、続く論述から気になった箇所からいくつかを引用。

《 しかしこれはあくまで「試み」であって、作品とは呼べない種類のものでしょう。作品は、多かれ少なかれ、精神が外側に向って開かれている地点でなければ成立しない。 》 「シュルレアリスムの防衛」 327頁

《 想像力の自律性を自覚しない場合、想像力にくつわをかませるものとしての表現の自律性も自覚されないであろう。したがって、言葉の形造るフィクションの世界も認識されないであろう。 》 「想像力の自律性をめぐって」 339頁

《 ただし、マラルメの向った方向からすれば、まさに裏返しの絶対の探求者であった。かれらは自我の集中の極限にではなく、自我の拡散のはてに絶対を求めた。語の精緻きわまる結合の中に新しい〈現実〉を発見するため、詩篇のはてしない彫琢を繰り返すか、それとも自我の小宇宙を構成する知性的な諸機能をみずから解体し、抑制を解かれてすべてが遊離的な自律運動を開始した知的廃墟の内側から溢れほとばしる本能的機能のうちに、〈自由〉の最も直接的なあらわれをつかみとるか。シュルレアリストは後者を選んだ。 》 同上 340頁

《 このことは、新しい芸術が真に新しい芸術となりうるためには、それ固有の表現手段を発見せねばならぬことを意味している。 》 「詩の心理学素描」 344頁

《 あらゆる芸術の目的は、つまるところ、ぼくらが日常意識していない、その意味では無に等しい時間や空間や記憶に、音や絵具や言葉によって形を与えることにあります。しかし同時に、そこに生みだされたものは美しいものでなければなりません。 》 「形式について」 350頁

《 つまり、美というものは、一方ではぼくらが知性によって理解しうる形式を備えていると同時に、その形式に抵抗し、しばしば反逆さえする材質(音や絵具や言葉)をも備えており、しかも材質を制約すべきはずの形式が、実は材質によって根本的に制約されているということであります。 》 「形式について」 350頁

《 芸術家にとって、おびただしい習作がはかりしれない重要な意味をもつのは、そうした意味においてであります。彼はいわば、努力の痕跡を少しずつ消しさるために、はてしない努力を続けるのです。この、一見矛盾していると思われるものの中にこそ、芸術家の仕事を理解する鍵があります。 》 「形式について」 351-352頁

 発見の連続だ。今読んだからこそ理解~納得できる、のかも。それにしても、これらが二十代に書かれたものとは。驚く。

 東京新聞、コラム「本音のコラム」は、三木義一「3S政策」。

《 「SCREEN スクリーン、SPORT スポーツ、SEX セックスという三つのSを大衆に解放すれば、政治のことなど気にしなくなるという愚民政策の一つだの」 》

《 「で、国民が愚民化し、与党はすっかり安泰」
  「ところが、与党もSで自滅しかかっておる」
  「え??」
  「まず世襲のS。次に宗教との癒着のS、そして最後に消費税のS」 》