『現代の美術 art now10 記号とイメージ』(閑人亭日録)

 『現代の美術 art now10 記号とイメージ』講談社(第7回配本)1971年10月30日第1刷発行、針生一郎・編著、「はじめに」を読んだ。

《 今日では、さまざまなの非言語的な記号が人間をとりまき、わたしたちに読むことを強制するだけでなく、言語を含む記号は計量可能なデータとしてコンピュータで操作される。言葉をとおして築かれてきた論理は、市場の管理機構に組み込まれ、支配の道具にすらなろうとしている。他方、マス・メディアがもたらす多様な映像は、人びとが容易に同化しうるものの写しとして、呪術的な浸透力をおびる。その中で、今日の美術家はイメージの機能を複製に還元するとともに、物質と行為のただなかから未知の記号をさぐり、さらに言葉から陳述をこえた要素をとりだして、それらを果てしなく交錯させようとする。それは芸術のジャンルの解消、芸術と現実の境界の解消ともみえるが、作家たちはむしろ絵画の伝統に含まれる矛盾をとおして、「見ること」の根底にある制度を問い直しているのである。 》6頁

 「1身ぶりの軌跡 未知なるものの記号」
《 戦後アメリカを席巻した抽象表現主義が、シュルレアリスムに負うところの多いのは明らかだろう。ただここでは、イメージの連想作用に基づくオートマティスム(自動筆記法)が、肉体的な行為と物質の葛藤の軌跡に変質して、生の現在と精神の辺境だけを浮かび上がらせる。巨大なカンヴァスを床に拡げて、その中で闘技者のように塗料をまきちらしたポロックは、こうした行為の神話の英雄となった。 》8頁

《 ところで、画面に定着された行為の痕跡は、「写し」である以上、複製可能であり、他の媒体と交換可能である。行為と表現の一体化が袋小路に達する時、行為はハプニングとして絵画の限界をこえ、記号の探求は複製という問題に直面しなければならないだろう。 》8頁

 「2複製されたイメージ a.写真的影像」
《 写真は、肉眼でとらえられないものでも正確に写し出すばかりでなく、一つのネガから多数の焼付が可能だから、芸術の「礼拝的価値」や「ほんもの」の概念を根底からおびやかす。こういう複製技術が、大衆意識の勃興と手をたずさえて発達した時、19世紀の芸術家は、恐怖と不安に駆られて、「芸術のための芸術」という神学のなかに逃げ込んだのである。 》24頁

《 シルクスクリーンの技術の発達につれて、写真の、版画による複製が容易なり、さらに油絵の手描きで、写真の効果を複製化する作家も今日では少なくない。そこには第一に、家族の記念写真、街頭スナップ、ピンナップのように、さりげない日常的な現実の複製化をとおして、「見ること」の根本にさかのぼる要求がある。第二に、コラージュやアッサンブラージュのように、写真のイメージの断片を組み合わせて、不協和音をかもしだす要求がある。第三、同じイメージをユニットとして配列して、量的集合を新しい質に転化しようとする要求がある。いずれも、眼に見える部分が断片であり、現象でしかないことを知りながら、あえて部分に固執して世界の全体像をまさぐっているのである。その意味でこれらの作品には、眼に見えるものと見えないものとの弁証法的な関連が含まれている。 》24頁

 「3複製されたイメージ b.マンガによる衝撃」
《 「物語的形象」とは、彼(注:ジェラール・ガシオ・タラボ)によれば、次の四つに分けられる。
  (1) 連続場面によるエピソード風の物語
  (2) 人間や物体が変身または変形し、動きと方向を示して展開する物語
  (3) 同じ構成の中での異なる時間の場面配列
  (4) 区画された顔や場面による物語
  いずれにしろ、日常性の神話をさぐるシュルレアリスム風の想像力と、時間の契機がここでは重視されている。それに対して、アメリカを中心とするポップ・アートが、マンガの一コマをそのまま拡大再現して、シネラマのように圧倒的で凶暴な迫力を生み出していることはいうまでもないだろう。(引用者・略)したがって、このようなマンガの一コマを再現することは、あらゆる主題とストーリーから離れて、イメージと記号、運動と観念、行為と言葉の関連を検討する機会となるだろう。 》42頁

 「4読まれる絵 見られる詩」
《 「読まれる絵、見られる詩」展の企画者ヤン・ダン・デル・マークは言う。(引用者・略)「読まれると見られるの逆転は、あらゆる芸術における伝統的カテゴリーの破壊を端的に暗示する。読むと見るを区別するのは、前者が時間と方向を含むのに対し、後者は瞬間的で全体的なことだ。だが、時間的要素としての言葉は、ますますイメージの空間的領域に侵入している。」両者の関係は、因果論よりは同時性、連想よりは等価、意味よりは効果に基づき、非論理的、不連続で解釈を拒否する作品が生まれる。 》52頁

 「5 シンボルの世界」
《 このように記号の中でも、特定の集団の特定の目的のために使われ、限定された意味をもつものがシンボルである。したがって、それはある対象を示すだけでなく、対象の性質と主体のはたらきとの一定の関係のしかたを示す。その関係が複雑微妙であればあるほど、シンボルは比喩、隠喩、変形、暗合などの要素を含んで、眼に見えるものと見えないもの、意味するものと意味されるものをつなぎ合わせる。こうして、記号一般が普遍的な伝達をめざすのに対して、シンボルはさまざまの約束ごとと解読能力を前提とし、コミュニケーションの相手を選別するのである。 》80頁

《 ところで、商業広告ももまた、人間の普遍的な欲望のうちに企業や商品のイメージを定着させようとして、広汎に日常生活の中にひり込み、疑似的な公共性をおびる。こうして私たちは 、自己にかかわりなく形づくられ、きまった意味をもつシンボルの体系に、たえずとりまかれている。シンボルはあくまで眼に見えるものと見えないものとの弁証法的関係のうちに成立するのだが、私たちはその関係を改めて問い直すことなしに、可視的な記号の洪水によって操作されているともいえる。今日の芸術家が、これら既成のシンボルを現代文明のインデックスとしてとりあげながら、そこから固定した意味をはぎとり、未知のシンボルを生み出す想像力を回復しようとするのは、このような状況からきているのだろう。それは現代文明の総体と対決し得る、自己のアイデンティティの根拠をさぐるためだといっても同じことである。 》80頁