「マルドロールの歌」

 座卓に並べてあった坂東壮一氏からの葉書を片付ける前に60倍のルーペで 銅版画を鑑賞。心の巡る一線一線。

 ロートレアモン『マルドロールの歌』角川文庫1993年3刷を読んだ。 現代思潮社の単行本で出合って四十年余。冒頭がずっと心にこだましていた。

《 神よ、願わくば読者がはげまされ、しばしこの読みものとおなじように 獰猛果敢になって、毒にみちみちた陰惨な頁の荒涼たる沼地をのっきり、 路に迷わず、険しい未開の路を見いださんことを。 》

 冒頭だけ読んで四十年余。文庫本でやっと読了。文庫本では「のっきり」は 「のりきり」に、獰猛には「どうもう」とルビ。

《 泳ぐ男と、彼に救われた雌鱶(めすふか)は、たがいに向き合う。彼らは 数分のあいだ、目と目を見合せ、相手の眼差のなかに、これほどまでの残忍さが 光るのをみて、両者ともに感嘆した。二人は互いに見失うまいと円を描いて、 ぐるぐる泳ぎまわりながら、めいめい心中ひそかに思うには、「おれは今まで 間違っていた。自分よりもっと邪悪なものがここにいる」。そこで、二人の 考えは完全に一致し、雌鱶は鰭で水をかきわけながら、マルドロールは腕で 水をうちながら、たがいに讃嘆の念を抱いて水の中を滑りより、めいめい、 おのれの生ける似姿を、生れて初めてつくづくと眺めては、深い畏敬の念に 息をのむのだった。三メートルの距離に達するや、なんの苦もなく、まるで 二人の恋人のように、突如として重なりあって倒れた。そして、兄か妹の ように優しい抱擁のうちに、品位と感謝にみちて抱きあったのである。 》  「第二の歌」132頁

《 こともあろうに《創造主》が……酔っ払ったとは!  》  「第三の歌」166頁

《 ぼくが書くときには、理智の大気のなかを新たなる戦慄がはしるのだ、 それをまともに凝視する勇気を持つことだけが肝要なのだ。 》 「第五の歌」 237頁

《 藁の下にかくされていても機能を発揮することのできるあの機械のように、 そしてなによりも、ミシンと洋傘との手術台のうえの不意の出逢いのように 美しい! 》 「第六の歌」293頁

《 本名イジドール・デュカス。南米ウルグアイに生まれ14歳でフランスに渡る。 これから十年後24歳の若さで、モンマルトルの下宿でただ一人、原因不明で死亡するまで、 彼の消息についてはほとんど知られていない。シュールレアリストに圧倒的な影響を 与えた狂気の詩人。 》 文庫本表紙裏紹介文

 訳者栗田勇の解説。

《 『マルドロールの歌』とは、作者、ロートレアモン伯爵が、みずから、悪の化身・ 天国から追放された堕落天使に変身して、神に対する反逆と呪い、人間にたいする 限りない愛と、裏返しにされた憎しみを歌った散文詩である。 》

 そのとおりだ。二律背反、アンビバレンスの、隠された痛ましき表現。

《 後に、「現代思潮社」から『マルドロールの歌』だけを小型本として出したが、 これは、幾度か装本をかえて毎年版を重ねながら読者の手に渡っている。 》

 四十年余り前、その函入りの本、1970年3刷を新刊で購入。本そのものは 気に入ったけれど、活字がどうにも馴染めなかった。それから四十年。 字の大きさがやや大きい文庫本は、読みやすい。較べてみると、単行本は 一行の字数が多い。47字14行。文庫は40字16行。たった7字の違い。 それがものをいう。

 昨日の毎日新聞朝刊、コラム山田孝男「風知草」、お題は「提灯が照らすもの」。

《 光の当てようで違って見えるものがある。 》

 二人の大阿闍梨(だいあじゃり)の話。

《 「懐中電灯は手元は明るいんですが、明かるすぎて離れたところは見えない。 その点、小田原提灯はボワーッと周囲を照らすので歩くにはむしろ勝手がいい。 寒い時は、上に手をかざすと暖かいですしね」 》 上原行照

《 「(懐中電灯に頼って夜道を歩くのは)人生において、目先のことだけに こだわって一目散に進んでいるようなものです。照らしたところしか 見ないんですから。ちょっと歩みをゆるめて周囲に気を配るようにしたら、 違ったものも見えてくるはずです」 》 光永覚道

 アナログレコード=提灯、デジタルCD〜ハイレゾオーディオ=懐中電灯?
 本=提灯、電子図書=懐中電灯? 手描きの絵=提灯、CG=懐中電灯?