『擬( MODOKI )』四

 松岡正剛『擬( MODOKI )』春秋社2017年初版を読了。

《 多言語文化にはそれなりの関心をもち、多少の努力もしたつもりだが、どこかで諦めた。そのうち「小さなこと」や「少なめ」のほうが大きく感じられたり、 かえって「足りなさ」の自覚のほうが豊かに感じることに積極的な関心をもつようになった。 》 「第二十綴(てつ) マレビトむすび」 270頁

《 経済学的には贈与の交換ともいうべきもののようなことが、大局的にはゆっくり進行しているはずなのだ。それを最も雄弁に語るのは、巨視的には自然の恵みが ないかぎり人類全体がまったく立ち行かないということだ。 》 「第二十綴(てつ) マレビトむすび」 271頁

《 しかし、そうなるにはやっぱりどうしても譲れない条件がある。それは「世」という本質の大半が首尾一貫しなくてもかまわない「擬(もどき)」でできている ということを、そろそろ歴史の大前提だと言いきってしまうことである。 》 「第二十綴(てつ) マレビトむすび」 274頁

《 ぼくの関心はずっと以前から、思考というものはゆらゆらとゆらぎつつ、目標に向かって逸れながらしか進めないだろうということにあった。これは思考の「もと」 を合理に還元しても詮ないことだろうということを告げる。 》 「別様あとがき」 275頁

《 本質に向かいたいのに別様なものしか出てこないなんて、こんなことでいいのかと訝る向きもあるだろうが、ぼくはそれでこそよろしいと思ってきた。そうでしか ないだろうと確信してきた。この見方は、いまのところ哲学でも科学でも未熟な試みにしかなっていないけれど、そのうち誰かがブレークスルーを発見するだろうと 思う。 》 「別様あとがき」 279頁

 なんとも励まされる「別様あとがき」だ。私は「本質」という言葉の意味が、恥ずかしながら今もってよくわからない。いろいろな定義に出合うが、どうも しっくりしない。安心した(←安心してはいかん)。松岡正剛のエッセンス、(凝縮された)一滴のような著作だ。軽やかにして読み応え十分。

 昨夜、女性画家から探索依頼のメール。
《  水木しげるさんの鬼太郎シリーズの中で、忘れられないシーンがあります。
  見開きで一面にびっしり桜、桜、桜・・・その(確か左の)隅っこに小さく猫娘がいて「鬼太郎さ〜〜ん」と呼んでいる、
  その絵をもう一度見たくて、いろんな鬼太郎シリーズを立ち読みでぺらぺらめくって探しましたが
  どこにも見当たりません。
  ご記憶にないでしょうか? 》

 昨夜、明日早速調べますと返事。
 朝からパソコン不調。それはそれとして水木しげるの本を引っ張り出してワッサワッサ読む。単行本から文庫本まで五十冊ほどある中で『ゲゲゲの鬼太郎』 『鬼太郎夜話』をまず攻略。これだけで五千ページか。ドンピシャリは見つからなかったけど、候補があった。「後神」。猫娘ではないが、最終ページ、女の子が 「鬼太郎さんありがとう」。そのコマの下が山村の桜の風景。吹き出しが「鬼太郎の歌は/山村に こだま/するのでした・・・・」。週刊少年マガジンに昭和43年 11月発表。該当ページをコピーして郵送。
 夕刻係員が来訪。モデムを取り替える。機器の故障では流石の私もお手上げ〜。固定電話も不通。携帯電話を持っていてよかった。で、メールを開くと迷惑メールが 一通のみ。なんじゃい。

 ネット、いろいろ。

《 「核兵器は必要悪ではなく絶対悪」 サーロー節子さん 》 朝日新聞
 http://www.asahi.com/articles/ASKDB4H8VKDBUHBI008.html