稲賀繁美『日本美術史の近代とその外部』放送大学教育振興会2018年初版を少し読む。野暮用が重なり、夕方やっと手をつける。のんびり読んでビックリ。
《 岡倉(天心)は土佐派や光琳の「熱心な研究者」として(横山)大観にふれつつ、久住守景や尾形光琳らの衣鉢を継ぐのが日本美術院であるとする立場も、 「美術院あるいは日本の新しい古派」(1904)でニューヨークの公衆に向けて披露している。 》 「第8章 東洋美学と西洋:翻訳の問題」 115頁
久隅守景だよなあ。
《 ここでも平明、直截(ちょくさい)な八代の英文表現に注目したい。 》 「第10章 八代幸雄と美術の東西:造形の現場と学術」 144頁
直截(ちょくせつ)に”ちょくさい”とカナが振ってある。”ちょくさい”は慣用読みだが。
《 それは大陸の影響からの乖離であるとともに、文人趣味と工藝との交差でもあり、西洋の価値範疇に照らすならば、高級藝術と低級藝術の融合であるとも 評価できる。晩年に向けて、八代はいくつかの国際美術出版において、こうした彼の日本美術観を披瀝してゆくこととなる。岡倉が提唱した「朦朧体」は、 八代において「暈(ぼか)し」や「滲(にじ)み」を通じて「湿潤の気の横溢」を寿ぐ位相へと転移を遂げた。
形をなさない汚点や滲みへと突き抜けた八代晩年の美意識は、同時代の抽象表現主義をはじめとする新たな価値観との対話を、洋の東西を跨ぐ課題として 指示しているようだ。 》 「第10章 八代幸雄と美術の東西:造形の現場と学術」 148頁
昨日の展覧会の副題は「創刊記念『國華』一三○周年」。小雨も降ってきたし、『國華』創刊号から三十号まで図版を閲覧。疲れ果て〜。昼食、昼食。
晩、大施餓鬼会へ。女の坊さんが増えたな。ふう。
ネット、いろいろ。
《 色紙ならまだしも、手紙まで‥。2015年とあるからお身体が大変のところ筆を取ったと思うと余計に‥。ある故人の資料整理を手伝った際、 書簡整理だけは複雑な気持ちだったことを思い出す。書簡集は当り前の時代だけども。/つげ義春 落款入り直筆サイン色紙と直筆署名入り手紙 》 虹霓社
https://twitter.com/ggpgmavo/status/998780564281806849
本棚からつげ義春『つげ義春初期短篇集』幻燈社1969年、サイン入りを取り出す。書簡・・・加藤郁乎、小泉喜美子、中井英夫、深澤幸雄・・・。
《 2歳児とは、考えてから行動するのではなく、行動しながら考え、大きな目的ではなく、小さな楽しみをつなぎ合わせて過ごす人たちなのです。 》 「イヤイヤ期よりブラブラ期…学者提案に保育現場から反響」朝日新聞DIGITAL
https://www.asahi.com/articles/ASL4Z745RL4ZUTFL003.html
アニミズム系の作家の制作現場みたい。
《 政府案の「リーディング・ミュージアム(先進美術館)」とは何か? 文化庁「確定事項は何もなく検討中」 》 美術手帖
https://bijutsutecho.com/news/15569/
《 今日の朝刊とTLは「日大」と「加計学園」で埋め尽くされておりました。みなさんご指摘の通り、「上が教唆して、下がその意を忖度して不適切な行為を行い、 責任問題が発生すると、上は順送りに『指示したことはない』と言い逃れて、一番下が責任を押し付けられる」という構造がまったく同じですね。 》 内田樹
https://twitter.com/levinassien/status/999074914572288000
《 そうなのだ。日本軍部は誰がどう見ても能無しだった。けれど彼らは、陸海軍大学出の、当時の日本では、東大法学部卒を遥かに凌ぐ選りすぐりの秀才だった。 なぜ、「日本の秀才=能無し」なのか、考えるべき時機に来ていると思う。 》 青木 俊
https://twitter.com/AokiTonko/status/998979236806328320
《 とある食堂。
「無能薬の野菜を使用しております」と書いてあった。
つげ義春を思い出した。 》 高野寛
https://twitter.com/takano_hiroshi/status/998548557102694400