『現代の美術 art now8 躍動する抽象』(閑人亭日録)

 『現代の美術 art now8 躍動する抽象』講談社(第10回配本)1972年2月5日第1刷発行、大岡信・編著、「はじめに」を読んだ。

《 いうまでもなく、絵画は色彩と形態によってある大きさの平面をいろどるものだ。画家からいえば、全身的な造形行為の明確な痕跡であり、観る者の側からいえば、視覚を主な通路とする全感覚的な受容体験の出発点であるもの、それが絵画作品にほかならない。 》6頁

《 芸術の歴史は、過去への反逆という意味において過去とつながる部分をもっていて、ある時代の様式は多かれ少なかれ常に考慮されねばならない重要な制作環境である。それゆえ、この本で扱う画家たちが、抽象という20世紀造形美術の大きな様式を通して語ろうとしている事実は、それそのものとして重要な意味をもっている。しかし、そのことは、彼らが単に抽象絵画としての傑作を描こうとして描いているということは意味しないだろう。彼らが伝えたいもの、この世に形あるものとしてとどめておきたいと願うもの、それに形を与えるのに、抽象絵画とよばれる様式が最も適していると思われたから、彼らはそれをやった。 》6頁

《 人間と自然との接触は、一方では地、水、火、風、空の元素的世界へ画家を導き、他方では都市のあらゆる塵埃、疾病、運動、歓楽、密集と孤独の世界へ彼を駆りたてるだろう。そういう拡がりにおいて、抽象の世界を見てゆこうと思う。 》6頁

 「1 形の彼方の形を求めて」
《 私はここで、20世紀が裸体像を含めて一般に人間像の衰退の時代であるという、すでに多くに人が指摘している事柄について思いを及ぼさずにはいられない。 》8頁

《 すなわち20世紀の人間観は、ギリシア以来、ルネサンス以来の輝かしい理想と秩序の相のもとにではなく、それらが崩壊したのちの人間と彼をとりまく自然の、混沌たる相剋の相のもとに再建されねばならない時代を迎えた。第二次大戦後の美術が、混沌をたえず内に含んだ「不定形」の「フォルム」に、おのれ自身の根拠を見出そうとするにいたったのは、歴史の必然の展開であり、そこに画家たちの誠実も賭けられていたのである。彼はフォルムの彼方のフォルムへ、冒険者としておもむかねばならないのだ。 》8頁

《 近代絵画の歴史は、そういう、本来きわめて抽象的である衝動、徹底的に事物の構造原理の根源にまで突入しようとする衝動がつぎつぎに形をとってあらわれてきた歴史といってもよかった。印象派は事物を光学のまなざしに還元し、セザンヌ印象派が解体した事物の外観の下にひそんでいる構造を、もう一度掘り起こした。ゴッホは主観の燃焼を、ゴーギャンは不動なるものへの渇望を。そうやってひとつひとつ洗い出された造形=世界観的要素の、さらに激しい純粋化が、20世紀美術の流れを決定してきたのはいうまでもない。フォーヴィズムは「色彩」を、キュビスムは「フォルム」を、それぞれ対象から独立して存在し得る「造形言語」として画面上に自己実現させた。シュルレアリスムは、不可視の内面世界に絵をのばした。そこで用いられた手段の一つに、心的自動性を表現するオートマティスム(自動描法)があり、ミロやマッソンによってめざましい新領域が開拓された。デッサンはここでは、外部の対象をかたどるものというよりは、「自分の中」(ミショー)にひそむ、ある無気味な超自我の世界の開示の手段なのである。 》10頁

 「2 描くことの原型を求めて」
《 こういう描き方、しかもポロックがやったようなドリッピング(滴らし)の技法で、オール・オーヴァー(大画面を隅々まで、どこにも特定の中心をおかずに、あらゆる細部の等価性を前提に、埋めつくす画法)の画面をつくってゆく場合、作品の中では、古典的な意味での構成も空間処理も光も影もヴァルール(色価)も補色も、いっさいが放棄されるのは当然である。それなら何ひとつ絵画的要素が存在しないかといえばそんなことはない。対象再現的、あるいは象徴的な要素は姿を消したが、かわりに、流動錯綜する色彩のアラベスクは純粋に造形的な記号と化し、直接的で具体的な絵画感覚を解放し、定着する。 》24頁

《 そのために、この種の絵は大画面を指向し、そのためにまた、この種の絵は、観る私たちの中に、不思議に触覚的な感覚をよびさます。というのも、おそらく、私たちはこれらの絵の中に入ることを誘われているからで、むしろ物質として、私たちに迫ってくるのである。 》24頁

 「「空間」概念の革新」
《 興味深いことは、このように多様な価値が絵画の中に包摂されるにつれ、画面は逆に単純化してゆく傾向を示すという事実である。(引用者・略)しかし、事情がそのようなものである以上、この単純さは、複雑な内部構造を含む単純さであり、それが排除している造形的な細部は、いわば見えない圧力として画面を緊迫させるはずである。したがって、ある抽象画家が発表する一点の絵の背後には、それに達するまでに見捨てられた何点もの、ほとんど同じ作品があるということは、つねに起こり得る事態であろう。(引用者・略)リリックで律動的な絵画ほど、デッサンのきびしい一回性によって生きもし、死にもするのである。
  こうして、空間そのものの概念が、単純化と複雑化との双方において、多様なすがたをとりはじめる。 》50頁

 「風土と抽象」
《 風土というものが一人の芸術家の中で静かに発酵し、作品の中にみずからを忍び込ませるやり方には、しばし驚くべきものがある。 》70頁

《 日本人の画家と地中海地方で育った画家とでは、ブルーという色の直観的イメージはおそらく大きな違いを示すであろう。
  抽象的な形態というものは、風土の枠を離れても、ある種の普遍性をもち得ると考えてよさそうだが、色彩については私たちはついにそこで育ち呼吸してきた風土の影響から、逃れきることはできないのではなかろうか。 》70頁

《 風土的なるものは、こうして「無意識」の世界におけるさまざまのアナロジーの発動のバネになっていると想像されるのである。それは、フロイト的であるよりはむしろユング的な、深層心理、集団的無意識の理論に、一つの例証を提供するような事例ともいい得るだろう。 》70頁

 「自然の拡張と深化」
《 従来なら、「風景」というものは、ある特定の地点にいる人間の、目を通して眺められた、一定の拡がりと焦点をもつ空間によって成立しているということができたが、いまやそういう意味での風景画とは別に、「自然画」とでも名づけるべきものが絵画の中に大きな位置を占めてきている。その大きな特徴は、第一に「時間」へのきわめて敏感な意識が、色彩、形態の世界に浸透しているということであり、第二に、特定の視覚的焦点というものが失われ、観る者は、絵のいかなる細部にも、それ独自の全体性を感じとることができるということである。これは当然、画面というものを、いわば始まりも終わりもない無窮動のエネルギーの具現したものと考える見方に人を導く。 》84頁

《 能産的自然 natura naturans は、自然界の根源的な「生成力」「形成力」であり、その力は、まさに「人間」のうちにも流れているのだ。それゆえ、現代の絵画は、人間自身の生成力、形成力の自己証明のような、形の彼方の形を追求する画家たちを、必然的に生むことにもなった。 》84頁

《 産出力それ自体としての、動的な自然の本質に迫ろうとする以上、いわゆる具象的な形態をも包み込むような拡がりをもって、それらはつねに「想像的」なのである。 》84頁